チャールズ1世はイギリス・スチュアート朝の2代目国王で、1625〜1649年に処刑されるまで王位に就きました。
内戦が勃発する激動の時代を生きた有名な国王ですが、なかなか聞き慣れない方もいるかもしれません。
チャールズ1世は平和王として有名なジェームズ1世の次男として生まれます。
しかし、父の友人であるバッキンガム公とともに父の平和政策に反する動きをして議会と対立する方向に向かっていきます。
議会を無視したり強制的な税の徴集を続けたりした結果、ピューリタン革命や内戦に敗北し1649年に処刑されてしまうのです。
このようにこの記事では、チャールズ1世の歴史を深掘りしながら家族構成・趣味の絵画の話・実は子だくさんだった話などをご紹介します。
最後まで読んでチャールズ1世について詳しくなりましょう。
チャールズ1世ってどんな人?
Embed from Getty Imagesチャールズ1世は1600年にスコットランドのダンファームリンに生まれましたが、常に優秀な兄と比べられコンプレックスを感じていたそうです。
また、幼少期に発達遅延や吃音があり、周囲から期待されず父に反発していたともいわれています。
チャールズ1世は平和政策で政治を行った父とは反対に、戦争王としても有名です。戦争のための税の徴集・兵の確保に尽力し、イングランド国内を衰退させていきます。
チャールズ1世は芸術のパトロンとしても有名な国王です。当時芸術後進国であったイングランドに、フランドル出身のアンソニー・ヴァン・ダルクを宮廷画家として迎えます。
このアンソニー・ヴァン・ダルクに多額の報酬や優遇を与え、40点ほどのチャールズ1世の肖像画を描きました。
この他にも、様々な美術作品のコレクターだったため処刑後にこのコレクションたちは議会派の人達によって売りに出されています。
チャールズ1世の生涯
ここでは、チャールズ1世について詳しく知るために幼少期・王太子・王位継承・清教徒革命・議会との全面戦争・再起失敗の6つの時代に分けて、解説します。
幼少期
チャールズ1世は1600年にスコットランドのダンファームリンに生まれました。父はジェームズ1世、母はアン・オブ・デンマークです。
チャールズ1世は幼少期の発達遅延と優秀な兄の存在で、周りからは全く期待されない幼少期を過ごします。
歩き始めと話し始めが遅く、手術や拘束具によって矯正をしようと医師らが提案しましたが、乳母の反対があり、地道な教育によってすくすくと成長していきます。
10歳頃になると、ようやく会話も歩きも普通の子供のようにできるようになりました。
王太子
暗い幼少期を過ごしたチャールズ1世は、優秀だった兄の死去がきっかけで父ジェイムズ1世から帝王教育を施されることになりました。
そして、兄の代わりに1612年にはプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)になります。
王太子の頃から政治に関わり始め、1621年にはイングランド議会の貴族院議員になります。この頃、チャールズ1世は21歳でした。
1613年に父ジェームズ1世は主に神聖ローマ帝国で起こっていた三十年戦争の終結のために、娘エリザベス・スチュアートとチャールズ1世の結婚を計画します。
このエリザベス・スチュアートは、チャールズ1世の姉に当たります。
姉エリザベス・スチュアートはプロテスタントのフリードリヒ5世と結婚し、チャールズ1世はカトリックのマリア・アナと結婚する予定でした。
しかし、姉と結婚した義理の兄・フリードリヒ5世が治めていたプファルツを奪われたため、父ジェームズ1世はその回復のためにチャールズ1世の結婚資金を使います。
また、ジェームズ1世は議会との対立などもあったため、チャールズ1世の結婚はなくなりました。
1623年にチャールズ1世は、父の友人であるバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの誘いで一緒にスペインへ旅に出ます。
この旅は、父ジェームズ1世の許可が降りる前に決行されてしまうのです。
スペインのマドリードに着いた2人は、政治的な交渉を行いましたが上手くいかず無駄足を踏んでしまいました。
そして、スペインに怒った二人はスペインに戦争を仕掛けるべく、今度はフランスに同盟国になってもらおうと交渉しに行きます。
そこで、チャールズ1世とフランスのヘンリエッタ・マリアの結婚が決まりました。
結婚はしたものの、外交に慣れていないバッキンガム公とチャールズ1世はまた失敗し、イングランドのカトリック教への寛容を約束してしまいます。
このカトリック教への寛容が、民衆の反感を買うことになってしまうのです。
王位継承
1625年に父ジェームズ1世が病気で亡くなり、チャールズ1世がイングランド・スコットランド・アイルランド国王に即位します。
チャールズ1世の補佐役は一緒に旅をしたバッキンガム公、妻はフランスのヘンリエッタ・マリアです。
この妻であるヘンリエッタ・マリアはカトリック教徒であり、王室にカトリック教徒を迎えたことは反カトリック派の反感を買いました。
またバッキンガム公の力不足と、チャールズ1世の王権神授説による権力独占に対して議会の怒りが増していくのです。
こうして批判が高まっていく中で、チャールズ1世は議会を無視し解散させてしまいます。
このようなバッキンガム公とチャールズ1世の対応に対し、フランスはイングランドを見限りスペインと同盟を組みます。
これにより、イングランドはフランスとスペインの2国を敵に回し、孤立してしまうのです。
また、バッキンガム公も暗殺されてしまい、議会の声を無視し続けたチャールズ1世はどんどん力を失っていきます。
清教徒革命
チャールズ1世が議会を解散したことによって、無議会で独占的な政治が行われます。
その間に、フランスともスペインとも和睦しますが、相変わらず民衆からは強引な税の徴集・プロテスタントであるピューリタン派の弾圧などをして各地で内乱が起きてしまいます。
この内乱鎮圧のための資金を集めるために議会を開いたが、資金が集まらないどころかチャールズ1の専制政治を非難する場になり失敗するのです。
このように、議会派とチャールズ1世側の対立が明確化していきます。
議会との全面戦争
第1次内戦のエッジヒルの戦いは引き分け、翌年のアルドルント・ムーアの戦いはチャールズ1世側の勝利に終わります。
しかし、マーストン・ムーアの戦いでは議会派に敗北し、続いて翌年1645年ネイズビーの戦いでも敗北してしまうのです。
内戦が激化する中で妻と長男をフランスへ亡命させます。また、スコットランドやアイルランドにも援軍を求めますが、上手くいかずに援軍は期待できませんでした。
再起失敗
ハンプトン・コート宮殿で軟禁されていたチャールズ1世は、脱出して第2次イングランド内戦を勃発させますが、失敗に終わります。
1964年には裁判によってチャールズ1世の処刑が決まり、ホワイトホール宮殿で公開処刑されました。
しかし、当時の民衆はチャールズ1世を神と同様の存在と考えていたため、チャールズ1世の亡骸から滴る血を持ち帰った人もいたそうです。
チャールズ1世の最期の言葉は「この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ」でした。
チャールズ1世の処刑によって、専制政治は一旦なくなりましたが、クロムウェルの死後、チャールズ1世の息子チャールズ2世が王位につき、王政復古が起こります。
そして、チャールズ1世を処刑した人たちは王殺しとして徹底的に報復されてしまうのです。
チャールズ1世の家族構成
Embed from Getty Imagesここまでチャールズ1世の歴史を見てきましたが、父や妻と政治が密接に絡み合っていることがわかります。
ここからはチャールズ1世のことをもっと知るために、チャールズ1世の家族構成について詳しく解説します。
妻
Embed from Getty Imagesチャールズ1世の妻はヘンリエッタ・マリアです。
ヘンリエッタ・マリアは、チャールズ1世と結婚しイングランドの王宮に入りますが、カトリック教徒だったためイングランドでは人気がありませんでした。
第1次イングランド内戦の際には、末娘を出産して直後にフランスへの亡命を余儀なくされたり、チャールズ1世の処刑後は経済的に非常に苦しんだりします。
しかし、1660年にイングランドで王政復古が起こり、イングランドに戻ってきます。
その後ヘンリエッタ・マリアはフランスに帰り、1669年に亡くなりました。埋葬場所は、歴代フランス王家の墓所ともいえるサン=ドニ大聖堂です。
父
Embed from Getty Imagesチャールズ1世の父は、ジェームズ1世または6世です。イングランド・アイルランド王としてはジェームズ1世で、スコットランド王としては6世と呼ばれています。
ジェイムズ1世はイングランドとスコットランド両国の王に初めてなった人物で、各国との和睦を進め平和王といわれていました。
ジェームズ1世は、王権神授説の基礎を作った人物ですが、多くの出費によってイングランド国を財政難にしてしまいます。
ジェームズ1世も幼い頃、チャールズ1世のように発達遅延があって歩き始めたのが5歳以降だったようです。
このように暗い幼少期を過ごしたものの、家庭教師によって語学・数学・歴史・地理・医学など英才教育を受けて博学の王になっていきます。
しかし、この教育は非常に厳しく体罰を受けることもあり、母と家庭教師を憎んでいたそうです。
ジェイムズ1世の晩年は、議会とも良好だったがバッキンガム公とチャールズ1世によって不安定になり、1625年に死去しました。
その後、チャールズ1世が後継者としてイングランド国王に即位します。
母
チャールズ1世の母は、アン・オブ・デンマークです。
このアン・オブ・デンマークはジェームズ1世の妻で、父はデンマーク=ノルウェー王のフレゼリク2世になります。
アン・オブ・デンマークはブロンドの美貌をもった女性でしたが、軽薄で浪費癖があり宝石や装飾品の買込で、財政難を起こしてしまいます。
また、ジェームズ1世との夫婦仲が悪く、長男の名付けや教育に関して対立しました。
アン・オブ・デンマークは宝石や装飾品以外にも、華やかな催し物・仮面劇・建築物も好きで、妙な建築物を多数作ってジェームズ1世を困らせています。
祖母
チャールズ1世の祖母は、ジェームズ1世の母であるメアリー・スチュアートです。
メアリー・スチュアートは同時代のイングランド女王エリザベス1世と比較されることが多く、様々な芸術作品の題材にもなっています。
生涯未婚で子供を残さなかったエリザベス1世に対し、メアリー・スチュアートの血筋は長く引き継がれ、以後のイングランド・スコットランド王の血筋は、すべてメアリー・スチュアートの直系子孫なのです。
チャールズ1世の子女は8人
Embed from Getty Imagesチャールズ1世は、妻ヘンリエッタ・マリアとの間に4男5女の子供を儲けました。下記に9人の名前を紹介します。
- チャールズ・ジェームズ
- チャールズ2世
- メアリー・ヘンリッタ
- ジェームズ2世
- エリザベス
- アン
- キャサリン
- ヘンリー
- ヘンリエッタ・アン
このように、チャールズ1世と妻ヘンリエッタ・マリアはとても夫婦仲が良く子供9人を授かっています。
チャールズ1世とジェームズ1世の関係
Embed from Getty Imagesチャールズ1世とジェームズ1世の関係は、あまり良くなかったのではないかと考えられます。
チャールズ1世は、幼少期に優秀な兄と比べられコンプレックスを感じていたこと、幼少期に発達遅延や吃音があり、周囲から期待されず父に反発していました。
またチャールズ1世は平和政策で政治を行った父とは反対に、戦争王としても有名で戦争のための税の徴集・兵の確保に尽力し、イングランド国内を衰退させていきます。
父の方ではなく、バッキンガム公のいうことを聞いて動いていることも親子不仲が感じられます。
しかし、父が基礎を作った王権神授説を一貫して守っているため、尊敬しているところもあったのかもしれません。
チャールズ1世と専制政治
チャールズ1世は、父ジェームズ1世が基礎を作った王権神授説を元に、専制政治を行っています。
また、財政難になると議会を開いて民衆から税を徴集し、都合が悪くなると解散することを繰り返しています。
このように専制政治とは、支配者層が被支配者層の関与を認めずに独裁して政治を行うものです。
このような専制政治によって、王党派と議会が対立してしまい、最終的にチャールズ1世は処刑になってしまいました。
チャールズ1世は議会に影響を及ぼした人物
チャールズは議会に大きな影響を及ぼした人物です。議会を無視し、特権を持つ商人と手を組んで財源の確保を目論みます。
その上、カルバン派プロテスタントであるピューリタンを弾圧し、反感を買いました。
そのような身勝手なチャールズ1世に対して、議会は権利の請願を提出し意見を聞いてもらおうとしましたが、チャールズ1世はこれらも無視をします。
このように、チャールズ1世は議会に影響を及ぼして専制政治を続けた結果、ピューリタン革命で敗北して最後には処刑されてしまったのです。
チャールズ1世について知りたいなら
チャールズ1世について知りたい場合は、自分でより深く調べてみることをおすすめします。
インターネット・図書館・本屋などで情報を探すと、知識を深めることができます。
また、イギリス・イングランド・スコットランドなどに旅行し、歴史的な建造物や博物館に見学に行くのもひとつの方法です。
他に、チャールズ1世が題材になっている小説や映画を見てみるのも当時の雰囲気も一緒に理解しやすいでしょう。
このように、POIN DE VUE JAPON(ポイントビュージャパン)では各国の王室情報・歴史・文化について情報発信しています。
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