「怠惰な王様」「恋に生きた陽気な王様」といった異名を持つ王様をご存じですか?
彼の名はチャールズ2世、決して政治的にも武力的にも長けていたわけではありませんが、国民の人気を得ていたことで有名な王様です。
異名だけ聞くと奔放に生きてきたように感じますが、実は16歳の頃から亡命生活を余儀なくされてきた波瀾万丈な人生を歩んでいます。
本記事では、異名に似合わない波瀾万丈な人生を送ったチャールズ2世について解説します。
ぜひご一読ください。
チャールズ2世について知りたい!
Embed from Getty Imagesチャールズ2世の波瀾万丈な人生は、16歳の頃に亡命生活を余儀なくされたことから始まります。
というのも、チャールス2世が生きてきた時代はちょうど宗派が非常に絡んでいた時代だったのです。
亡命生活を余儀なくされた16歳の頃も、ピューリタン革命がまさに起きようとしていた時でした。
これにより王のいない共和制が実現されたため、王の息子で、継承権を所持していたチャールズ2世は非常に肩身が狭かったことでしょう。
そのようなチャールズ2世ではありますが、後述する王政復古によりイングランドでの権威を回復します。
その後は議会に政治を任せながら奔放な私生活を送り、それでも国民に愛される王様となったのでした。
それでは、ここからはより詳しくチャールズ2世の人生に迫っていきましょう。
チャールズ2世の生い立ち
Embed from Getty Imagesここでは、チャールズ2世の生い立ちについてご紹介します。
イギリスの変化の時代を生き抜いたチャールズ2世は、どのようにして誕生したのでしょうか。
チャールズ1世の次男としてロンドンで誕生
チャールズ2世は、チャールズ1世とマリア王妃の次男としてロンドンに誕生しました。
チャールズ2世は次男ではありましたが、長男であるジェームズは死産であったため、実質的にはチャールズ2世が王位継承権を持っています。
ロンドンのセントジェームズ宮殿で誕生し、他に6人の妹と弟に囲まれました。
亡命生活時代
賑わいのある大家族の生活は長く続かず、父親であるチャールズ1世の専制政治への不満がきっかけでピューリタン革命が起こります。
16歳の頃にピューリタン革命の危険を察知し、チャールズ1世を残して母の実家であるフランスへと亡命しました。
そして、イングランドに残ったチャールズ1世は処刑され、イングランドはそのまま共和国へと転換します。
王政復古を狙って様々な国で亡命する生活を送りますが、イングランドの脅威は増すばかりです。
次々とイングランド側へとつく国が出てくる中、スコットランドはピューリタン革命へ反対の立場を取ります。
スコットランドでの戴冠
これを機にチャールズ2世はスコットランドへと亡命し、王位の主張を始めました。
1951年、スコットランドにおいてチャールズ2世をスコットランド王として支持することが決まり、スクーンにて正式に戴冠します。
しかし、スコットランド軍は進行してきたイングランド共和国のクロムウェル軍に敗北してしまいました。
そのため、スコットランド王としての称号を持ちつつも、再びフランスへ亡命しています。
イングランドでの王政復古
チャールズ2世の亡命生活をご紹介しましたが、ここまで彼の人生に光が指す様子はありませんでした。しかし、ついにチャールズ2世に転機がやってきます。
1658年、イングランド共和国で政権を掌握していたクロムウェルが病死したのです。これにより、イングランド共和国は大混乱へと陥ります。
チャールズ2世は、この機会を逃しませんでした。スコットランドから軍を派遣し、1660年に議会を解散・議会への王党派復帰を要請します。
その1ヶ月後、チャールズ2世はオランダのブレダからブレダ宣言とともに王政復古を提案し、王党派多数の議会にて受諾されました。
その後、イングランドでの王政復古を果たします。
ポルトガル王女との結婚
Embed from Getty Images1661年には正式にチャールズ2世として戴冠式を行い、その1年後にはポルトガル王女カタリナ(キャサリン)と結婚します。
持参金としてインドのボンベイや北アフリカのタンジールを提供し、これらはイングランドの領土となりました。しかし、当時はこの価値を知る方が少なかったといいます。
彼女は、イングランドにお茶の習慣をもたらしたことで有名です。外国産で高価であった紅茶と砂糖を大量に持ち込み、イギリスのティータイムの文化を創りました。
しかし、生粋のカトリック教徒であったため、イングランドにおける好感度は高くなかったようです。
当のチャールズ2世はというと、カタリナという妻がいながらも14人もの愛人との関係を持っていました。
根っからの女性好きであったため、即位した当初からすでに庶子がいたといいます。
とはいえ、チャールズ2世はカタリナを愛していました。2人の間に子供は生まれませんでしたが、だからこそ徹底して尊重・擁護していたことが分かっています。
チャールズ2世の治世時代
チャールズ2世の治世時代は、キリストの宗派が複雑に絡み合い、多くの紛争が起きた時代でした。
チャールズ2世は特に野心を抱くこともなく、基本的な統治は議会に任せていました。
英蘭戦争・黒死病の流行・ロンドン大火など様々な混乱がありましたが、議会と協力することで乗り越えていたといいます。
しかし、フランス国王ルイ14世とドーバーの密約を結んでから、議会との対立はどんどん深まっていきます。
イングランドのカトリック化を目指すチャールズ2世、国教会化を目指す議会というように意見が割れてしまいました。
チャールズ2世は「信仰自由宣言」を出しましたが、議会に強制的に撤回させられます。
チャールズ2世治世下の主な出来事
チャールズ2世と議会は、互いの宗派への思惑が絡んで両者の溝は徐々に深まりました。ここでは、その原点ともなった2つの出来事を解説します。
英蘭戦争
1665年から、チャールズ2世は第二次英蘭戦争を引き起こしました。
オランダの植民地であるニューネーデルラントを侵略・占領してニューヨークと改称したことがきっかけです。
しかし、第1次英蘭戦争の大敗を学んでいたオランダ側は、17世紀最大の海戦と呼ばれた「四日海戦」にて大勝利をおさめます。
結果、1667年にブレダ条約を締結することで戦争は終結しました。
よく英蘭戦争はイングランド側の勝利と思われることが多いですが、実際はオランダ側が数段有利な状態での条約締結だったといいます。
ドーヴァーの密約
ドーヴァーの密約は、チャールズ2世とフランス王ルイ14世間で締結された密約のことです。1670年に交わされました。
チャールズ2世は当時赤字財政に苦しんでおり、ルイ14世に交換条件を見返りに財政援助をお願いしたものです。
ドーヴァーの密約の要点としては以下のようになっています。
- フランス側の資金援助をもとにイングランドのカトリック化を進める
- フランスがオランダ侵攻を始めたらイングランドも合わせて攻撃する
これにより1672年には第三次英蘭戦争を引き起こし、信仰自由宣言を行いました。こうして議会との対立が深まったのです。
結局、議会の反対に押し切られて、第三次英蘭戦争も信仰自由宣言も失敗に終わっています。
チャールズ2世とカトリック
チャールズ2世は、公言することはなかったものの、実はカトリック教徒であったといわれています。
段階的に信仰自由宣言を出すといった行動に出たのは、カトリック教徒故のカトリック復帰を画策していたということです。
議会は国教会化を画策していたため、チャールズ2世の動きには猛反発しました。
これに伴い制定されたのが、審査法です。審査法では、カトリック教徒の官職就任を禁じています。
このような議会の反対に伴い、チャールズ2世が願ったカトリック復帰は叶いませんでした。
そして1685年の2月、チャールズ2世は心臓発作を起こして倒れます。そのまま回復することなく、54歳で崩御することとなりました。
息を引き取る直前、チャールズ2世はカトリックへの改宗を伝えたといいます。カミングアウトをしたのはこの時が初めてだったそうです。
怠惰王といわれるが国民からは人気があった?
冒頭にてご紹介したチャールズ2世の怠惰王たる所以は、議会に任せっきりで政治や祭りごとに関心を示さなかったことにあります。
しかし、それでもイングランド国民からは根強い人気がありました。それには、彼の愛溢れる性格が影響しているといいます。
チャールズ2世には多くの愛妾がおり、庶子も多く生まれていましたが、彼は誰ひとりと疎かにすることなく分け隔てなく愛情を注いでいたのです。
妻であるカタリナ王女のことも非常に大切にしており、陽気で奔放でありながらも大切にすることを忘れない性格が国民を魅了していました。
イギリス王室の家族構成を紹介
ここでは、チャールズ2世と特に関わりが深かった3人の家族をご紹介します。
チャールズ1世
Embed from Getty Imagesチャールズ2世の父親であり、前イングランド国王であったチャールズ1世は、非常に真面目な王様でした。
しかしそれが仇となってピューリタン革命に巻き込まれ、1649年には処刑されてしまいます。
妻であるヘンリエッタ・マリアを非常に大切にしており、チャールズ2世のように多数の女性と関係を持つことはしなかったといわれています。
ジェームズ7世(ジェームズ2世)
チャールズ2世は、庶子こそたくさんいたものの、正式な跡継ぎには恵まれませんでした。結婚したカタリナ王女との間には子を授かれなかったのです。
これにより、チャールズ2世の死後はジェームズ7世が王位を引き継ぐことになります。
しかし、ジェームズ7世が推し進めた新カトリック政策が反乱を巻き起こし、名誉革命へと発展してしまいました。
これにより、ジェームズ7世は即位してからわずか3年足らずで失脚してしまいました。
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスはチャールズ1世の妻であり、政略結婚で巡り会っています。
とはいえ2人の仲は非常に良く、イングランドでの政略結婚では類を見ないほど関係良好であったそうです。
夫であるチャールズ1世が処刑されてからは経済的苦境に立たされましたが、チャールズ2世が王政復古してからはイングランドへと帰還しました。
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様々な宗派や思惑にもまれ、チャールズ2世は波瀾万丈な人生を歩んでいました。
亡命生活を余儀なくされた幼き頃のチャールズ2世でしたが、すぐに王政復古を実現できたことは機会に恵まれていたといえるでしょう。
議会に政治を任せる様子は「怠惰な王様」と称されますが、反対に君臨しても統治せずの精神を実現していたと評価される声もあります。
女性を愛し、奔放な生活を送ってきましたが、カトリック教徒であることを死の直前までいわない慎重さを持っていたことがチャールズ2世の魅力です。
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