16世紀前半、神聖ローマ帝国にてかつてヨーロッパ最大の勢力を有していたといわれる人物が誕生します。
家柄に恵まれ、度重なる戦争もものともせずに勝ち抜き、世界史上最も多い70もの称号を手にしました。
彼の名はカール5世といい、その生涯は短くも非常に濃密です。
今回は、空前絶後の一大帝国を統治していたといわれるこのカール5世の生涯に迫ります。
ぜひ最後までご覧ください。
カール5世とはどのような人物?
Embed from Getty Imagesカール5世とは、1516年から1556年までの40年もの間、神聖ローマ帝国を統治していた国王のことです。
父フェリペ1世と母フアナの間の長男として生まれ、当時の一大貴族であるハプスブルク家の一員として勢力を拡大しました。
カール5世は家柄に非常に恵まれていたことで有名です。
父方からは神聖ローマ皇帝の位やブルゴーニュ公領を、母方からは中南米やフィリピンなどの広大な植民地を有するスペイン皇帝の位を引き継いでいます。
弱冠16歳にしてこれらの位を引き継ぐことになり、この時点で多くの称号を持つことになりました。
その後は自ら戦地に赴き、領地を拡大していきます。当時のヨーロッパの半分は彼の手にあったといっても過言ではないくらいでした。
カール5世は非常に美食家であったとも知られており、美食が行き過ぎて偏食であったと揶揄されるほどです。
晩年にはこの美食と偏食により痛風を患ってしまい、激痛に悩まされる生活を送っていたといわれています。
カール5世の生涯の出来事
カール5世がスペイン皇帝として在位した1516年から退位する1556年の40年間、世界では非常に様々な出来事がありました。
今回はその中でも特に大きな出来事として、フランスとの因縁・宗教改革・オスマン帝国との戦いの3つをご紹介します。
フランスとの戦い
カール5世は、フランス王のフランソワ1世と因縁がありました。
事の発端は、神聖ローマ帝国皇帝を選出する際の選挙です。
カール5世は父方から神聖ローマ帝国皇帝の位を引き継いでいましたが、当時は世襲制ではなかったため、この選挙に勝利しなければ皇帝には就任できませんでした。
その際に肩を並べて争い合っていたのが、フランス王のフランソワ1世です。
フランソワ1世にとっても、神聖ローマ帝国皇帝という地位は喉から手が出るほど欲しいものでした。
強烈な買収工作を重ね、選挙の票獲得に熱心だったといいます。
しかし、結果的に皇帝に選ばれたのはフランソワ1世ではなく、カール5世でした。その裏には、南ドイツの豪商であるフッガー家の金銭的な援助があります。
カール5世はフッガー家に借金をする形で皇帝へと選出されたのです。
今では考えられませんが、当時では賄賂で選挙侯たちの支持を得るのは当たり前だったのですね。
これが因縁となってか、カール5世とフランソワ1世は度々衝突するようになりました。
その度にヨーロッパ全土が混乱に陥り、何度も戦争が引き起こされています。
1521年には北イタリアで戦争を起こし、1525年にはパウヴィアの戦いでフランソワ1世を捕虜にすることに成功しました。
この時にフランソワ一1世が持っていた北イタリアの権利を全て放棄する条約を承認させましたが、結局翻されて破棄されることになり、抗争は続きます。
結果1529年にカンブレー講和条約を結ぶことで戦争は終結しましたが、両者の睨み合いは生涯続いていたようです。
宗教改革への対応
カール5世がフランソワ1世との戦争で余裕がない中、神聖ローマ帝国の中ではルターによる宗教改革が進んでいました。
1517年、当時ヴィッテンベルク大学の神学教授であったルターは、教会が配布している免罪符に対して疑念を抱くようになります。
そして「九十五ヶ条の論題」を発表しました。これが発端となり、ドイツや周辺諸国では宗教改革の運動が広まります。
1521年、カール5世はルターをヴォルムス帝国議会へと召喚しました。1521年といえば、フランソワ1世との北イタリア戦争の真っ最中です。
そのような中ルターを召喚し、ルターが唱えている自説を撤回するように求めました。
ところが、ルターはそれを拒否します。これによりカール5世はルターを異端と断定して、主張を認めず、帝国追放の処分を下しました。
ルターの著作の販売や購読も禁じたのですが、結果的にルター派は徐々にその勢いを増していたといいます。
1546年、カール5世の要請によりトリエント公会議が開催されました。
目的は、宗教対立の解決の糸口を模索することにありましたが、お互いに妥協点が見つけられません。
1555年、体調が優れなかったカール5世は、弟に神聖ローマ帝国の職務を任せて休養に入ります。
その年に弟のフェルディナントは会議を開き、ルター派とアウクスブルクの和議を結びました。こうしてルター派の信仰は公的に認められて終結しています。
オスマン帝国の侵攻の防衛
カール5世は、当時勢力を増していたオスマン帝国による侵攻の防衛もしなければなりまsんでした。
当時の地中海の権利はすでにオスマン帝国に渡っており、1529年にはウィーンを包囲するほどまでに拡大していました。
しかし、カール5世はその勢いをものともせず、1535年のチュニス征服においてオスマン帝国を打ち負かします。
1536年にはつい数年前まで戦争をしていたフランソワ1世と対オスマン帝国同盟を結びましたが、結局フランスはオスマン帝国と講和してしまいました。
そうして1538年にはプレヴェザの海戦を繰り広げましたが敗退し、戦費をまかなえなくなってオスマン帝国との決着をつけざるをえない状況へと陥ります。
結局、カール5世の時代では終結せず、オスマン帝国との因縁は息子のフェリペ2世へと引き継がれました。
カール5世の代表的な称号とは?
冒頭でもご紹介しましたが、カール5世は世界史上最も多い70もの称号を持っています。
ここではその中でも特に代表的な、以下の3つの称号をご紹介します。
- アラゴン王
- カスティーリャ王
- ナポリ王
王という称号が1つあるだけでも偉大であるのにもかかわらず、こうした称号が70もあっただなんて驚異的ですね。
カール5世の勢力の大きさがよくわかります。
アラゴン王
アラゴン王国とは、現在のスペインのアラゴン州に位置する場所に存在した王国です。
地中海の一大勢力を持つ「海洋帝国」といわれるほどの権威を持っており、シチリア・サルデーニャ王国・ナポリ王国などを領有していました。
カール5世の母方の祖父母は、政略結婚によりアラゴン王国とカスティーリャ王国を統合し、スペインを成立させています。
しかしカール5世がまだ6歳だったころ父親が急死してしまい、さらに16歳の頃には母方の祖父が死去しました。
これにより、カール5世は幼いながらもアラゴン王になってしまったのでした。
恵まれすぎた血筋と不運が重なり、意図せずともこの称号を手に入れてしまったのです。
しかし、称号を手にした当時は、幼すぎることから母親との共同統治という形を取っていました。実質的にはカール5世1人の称号ではなかったといえます。
カスティーリャ王
カスティーリャ王国とは、スペイン中央部に位置する場所に存在した王国です。
余談ではありますが、洋菓子のカステラはこのカスティーリャ王国のポルトガル語発音からきているといわれています。
母方の祖父が死去したと同時に、カール5世へとその王位が引き継がれました。
ナポリ王
ナポリ王国とは、現在のイタリア半島の南部に位置する場所に存在した王国です。
国号としてはシチリア王国を公称しており、1759年までナポリ王国と公称していなかったことに注意が必要です。
母方の祖父が死去したと同時に、カール5世へとその王位が引き継がれました。
こうして見ると母方の祖父の権威が偉大であったことが伺えますね。彼の名はフェルナンド2世といいます。
フェルナンド2世もまた血筋に恵まれており、政略結婚によりさらにその権威を増しました。
カール5世が多くの称号を手にすることになったのは、フェルナンド2世の影響が大きいといえます。
カール5世の家族構成
Embed from Getty Imagesここではカール5世の家族構成をご紹介します。カール5世はかなり多くの子宝に恵まれており、多くの血筋を残しました。
ここでは妻・父・母・子女の4つの項目に分けて確認していきましょう。
妻
カール5世は、1526年にポルトガルの王妃であるイサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴンと結婚しました。
お互いに母方の従兄妹であったといいます。
2人の結婚は政略結婚であり、ハプスブルク家とポルトガル王家の結びつきを強固にする目的がありました。
とはいえ、2人は非常に仲睦まじかったことで知られています。子宝にも恵まれ、5人の子を授かりました。
戦争のためにヨーロッパ中へと遠征を向かうカール5世を献身的に支え、カール5世に代わってスペイン王国の摂政を務めていたこともあります。
しかしそのようなお互いの素敵な関係も、長くは続きませんでした。
1539年、カール5世が不在の中、イサベルは末子を出産する際に難産で亡くなってしまいました。
カール5世はひどく悲しみ、1558年に亡くなる時までずっと黒の喪服で過ごしたといいます。
父
Embed from Getty Imagesカール5世の父は、フェリペ1世です。容姿端麗であり、好色家であったことで知られています。
カール5世の母であるフアナから熱愛を受けていましたが、彼女の激しい気性に愛想をつかしてしまっていたことは非常に有名ですね。
フェリペ1世はスペインへと向かって、ナポリ王国の権益を確保しようと動いていましたが、その滞在中に冷水にあたって28歳の若さで亡くなっています。
当時カール5世はまだ6歳でした。
母
カール5世の母は、フアナです。カスティーリャの第二王女でした。
彼女はカール5世の父フェリペ1世を愛するあまり、結婚後から精神異常が見られるようになってしまいました。
フェリペ1世が早くに亡くなってしまったことでさらに悪化してしまい、40年間幽閉されています。
その正気を失った様子から、狂女フアナという異名で呼ばれることもあるようです。
子女
カール5世は、妻イサベルとの間に5人の子を授かっています。
- フェリペ2世
- マリア
- フェルナンド
- フアナ
- フアン
フェリペ2世は長男として、カール5世の晩年には統治を任されるようになりました。
ハプスブルク家の血筋は、カール5世によってさらに拡大することとなります。
カール5世とフランソワ1世の関係
カール5世とフランス王であるフランソワ1世は、生涯最大のライバルであったといわれています。
彼らの衝突のせいでヨーロッパ全体が大混乱になるほど、強い因縁があったのです。
やはり大きな原因は、神聖ローマ帝国皇帝選出における選挙にあるといえるでしょう。
お互いに買収工作をして票を獲得しようと動いていたわけですが、結果的にはカール5世が全ての票を獲得することになります。
ただこれはカール5世独自の資金というよりは借金をして得た資金だったため、フランソワ1世にとってはかなり悔しい結果だったのでしょう。
以後、両者は宿敵として度々衝突することになりました。
結果的に講和条約を結ぶことで和平となりましたが、睨み合いはずっと続いていたといいます。
カール5世とカルロス1世の違いは?
Embed from Getty Imagesカール5世とカルロス1世は同一人物です。元の名前といえば、カール5世というよりカルロス1世であったといえます。
1516年に母方の祖父が死去したことで即位したスペイン王には、カルロス1世として即位しました。
その後1519年に神聖ローマ帝国皇帝に選出された際には、カール5世として即位しています。
便宜上2つの名前を持つことになりましたが、カール5世とカルロス1世には違いはありません。
カール5世はヨーロッパ最大の勢力を有していた?

カール5世がヨーロッパ最大の勢力を有していたというのは事実です。
実にヨーロッパの半分を統治していたといいます。
元々のカール5世の血筋として、ハプスブルク家は政略結婚で勢力を拡大していました。
特にカール5世の母方の祖父母の政略結婚においては、当時勢力をましていたスペイン王国含め多大な土地を領有することになったため、すでに基盤は完成していたのです。
そのため、カール5世は空前絶後の一大帝国を統治していたといわれることもあります。
カール5世について知りたいなら
非常に波瀾万丈なカール5世の生涯に迫っていきましたが、いかがでしたか?
恵まれた血筋であったとはいえ、自ら戦地に赴く姿勢で多くの領地を統治していたのがこのカール5世です。
特に1520年から1530年にかけては忙殺されるほどの様々な出来事に見舞われ、非常に大変な生涯であったでしょう。
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