寬仁親王妃信子殿下はどんな方?麻生太郎氏との関係や経歴・ご家族・家系・現在のご活動も詳しく解説します

ライターPOINT DE VUE JAPON編集部
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BERCY, FRANCE – FEBRUARY 8: International Judo Federation Ambassador, Princess Tomohito of Japan presented the u48kg medals during the 2020 Paris Judo Grand Slam (8-9 February) at the Accor Arena on February 8, 2020 in Bercy, Paris, France. (Photo by David Finch/Getty Images)

寬仁親王妃信子殿下は、麻生太郎氏の妹で皇族の一員です。彼女は非常に高貴な方で、先祖には大久保利通がいます。

そこで本記事では、寬仁親王妃信子殿下について解説します。麻生太郎氏との関係・経歴・ご家族・家計・現在の活動なども詳しく解説するので、ぜひ参考にしてください。

寬仁親王妃信子殿下はどんな方?

寬仁親王妃信子殿下は、日本の皇族の1人で、寬仁親王妃という言葉は彼の妃を意味します。

現在、彼は薨去しています。寬仁親王妃信子殿下の旧名は麻生信子であり、敬称は信子殿下と呼ばれます。

寬仁親王妃信子殿下は、1955年4月9日に三女として誕生しました。両親は、どちらも非常に経歴のある方でした。

父親は麻生セメント会長の麻生太賀吉で、母親は第45代内閣総理大臣の吉田茂の長女である和子です。そのため、幼少期から高度な教育を受けました。

本人も両親に恥じない名誉ある活動をしており、中でも日本赤十字社名誉副総裁や一般社団法人日本童謡学会名誉総裁など、数々の権威ある役職を務めています。

麻生太郎氏との関係は?

寬仁親王妃信子殿下を語るとき、必ず麻生太郎氏の話が出てきますが、どのような関係があるのでしょうか。

実は麻生太郎氏は、彼女のにあたる人物です。麻生太郎氏とは、現在日本の政治家を務める人物で、自由民主党の衆議院議員です。

第92代内閣総理大臣であり、2003年~2009年までの間は副総理兼財務大臣などを勤めた人物でもあります。さらに、2009年~2012年にかけては内閣官房長官を務めました。

また、クレー射撃スキート日本代表のオリンピック選手という意外な一面も持ち合わせます。

先述したように、彼女は日本赤十字社名誉副総裁や一般社団法人日本童謡学会名誉総裁などの重役を務め上げました。

彼女の家族は、全員が政治に関わる人物であるため、寬仁親王妃信子殿下本人も政治に関わる大きな役目を担っていることは不思議ではないでしょう。

経歴

寬仁親王妃信子殿下は、さまざまな代表を務めたり取り組みを行ってきた人物ですが、どのような生い立ちだったのでしょうか。ここでは寬仁親王妃信子殿下の経歴をまとめます。

  • 1955年:誕生
  • 1962年:松濤幼稚園を卒園
  • 1974年:英国ロスリンハウス・コレッジを卒業
  • 1980年:皇室会議を経て、寬仁親王殿下と婚約。
  • 1986年:第1子を出産
  • 1988年:第2子を出産

彼女は、幼少期から厳しい教育を受けており、松濤幼稚園を卒園後は聖心女子学院初等科と中等科を経ています。

また、英国ロスリンハウス・コレッジを卒業後は、彼女自身がかつて通っていた松濤幼稚園の英語講師を務めるなど教育にも力を注ぎました。

生い立ち

寬仁親王妃信子殿下は、1955年に麻生太賀吉と吉田和子との間に生まれました。兄に麻生太郎がおり、年齢は15歳ほど離れています。

幼少期は松濤幼稚園に入園し、卒園後は聖心女子学院初等科に入学します。

その後、中等科を経てイギリス・ランカシャーのインデペンデント・スクールであるロスリンハウス・コレッジへ入学しました。

卒業後は、かつて通っていた松濤幼稚園の英語講師として勤め、後世の教育や育成に尽力しました。

ご結婚

寬仁親王妃信子殿下の詳細な生い立ちをご紹介しましたが、実は結婚の話が出たのは非常に早かったです。

1972年の2月、彼女がまだ高校生の時に結婚の話が出ました。当時、26歳だった寬仁親王殿下から突然求婚されたのです。

しかし、彼女は、ご自身でもまだ若すぎると考えこの時に婚約は行いませんでした。

正式に婚約となったのは、1980年4月18日の皇室会議を経てからです。そして、同年11月7日に成婚しました。寬仁親王妃信子殿下はこの時24歳でした。

そしてこの時から、東京都千代田区三番町の仮寓所に住むようになります。寬仁親王殿下と彼女の子供が生まれたのは、翌年のことでした。

1981年に長女の彬子女王殿下、1983年に二女である瑶子女王殿下を出産します。

闘病のため長い静養生活を送る

寬仁親王妃信子殿下の生い立ち・結婚・出産をご紹介しましたが、実は後に長い静養生活を送ることとなります。

その原因は、一過性脳虚血の発作です。2004年に発作が起こり、長野県軽井沢町の別邸にて療養を始めます。

また、同時に更年期障害も重なることとなります。そのため、重い症状が続き静養を続けていました。

しかし、2006年に入ると新年の祝詞を述べるために一度は帰京します。そして、再び軽井沢にて療養に入りますが、症状も再び発症してしてしまいました。

そして、5月に帰京予定でしたが、寬仁親王殿下の体調が悪化したため帰京を延期します。同年8月には約2年ぶりに宮廷に戻ることができましたが、式典へは欠席が続きました。

さらに症状は重なってしまい、2008年に気管支喘息を発症します。入退院を何度か繰り返し、さらに別邸での長期療養を始めます。

ここまで約4年間静養生活を送りますが、本格的に復帰を果たしたのは2013年の公務からです。

寬仁親王薨去後の生活 

寬仁親王妃信子殿下の静養期間と、寬仁親王殿下の薨去した時期は重なっています。そのため、寬仁親王殿下の葬儀では、彼女は表に出ることはできませんでした。

喪主は長女の彬子女王殿下が務めました。そして、寬仁親王殿下が薨去した後の2013年に、ようやく公務に復帰できるようになります。

2014年には、義弟である桂宮宜仁親王の薨去に際し、弔問にも訪れることができました。また、その後の晩さん会などの公務にも出席し、かつての元気を取り戻しています。

寬仁親王殿下と共に尽力してきたことのひとつとして日本の童謡を再興する活動があり、復帰後はその活動にも再び尽力し、日本童謡学会の名誉総裁に就任しました。

その後2022年には乳がんと診断されましたが、11月16日に都内の病院にて手術を受け、術後経過は順調に経過しているようです。

寬仁親王殿下と不仲だった?

寬仁親王妃信子殿下の静養生活から、その後の寬仁親王殿下が薨去してからの生活をご紹介しました。

若くして結婚してから寬仁親王殿下が亡くなるまでの間、不仲だったといううわさが流れていますが、本当なのでしょうか。

結論からいうと真実は不明です。不仲説が出た理由のひとつには、寬仁親王妃信子殿下の静養期間と、寬仁親王殿下の癌の再発時期が重なってしまっていることが考えられます。

癌が見つかった当初は、彼女も献身的な看病をされていました。得意の料理を振舞うなど、献身的に行っていたといわれています。

しかし、2003年になって癌が再発する頃になると、彼女本人も一過性脳虚血の発作により体調を崩します。

そして、そのまま別邸にて療養を行うようになってしまいました。そのため、寬仁親王殿下が亡くなるまでの間、別居状態となり不仲説が噂されるようになってしまったのです。

このように、いくつかの説がありますが、いずれも真実と裏付ける確証はありません。

寬仁親王妃信子殿下のご家族は?

ここからは寬仁親王殿下を含めご家族の方もご紹介します。

ご家族のことを把握できれば、さらに詳しく寬仁親王妃信子殿下を理解することができるでしょう。

夫の寬仁親王殿下

まずは夫である寬仁親王殿下です。彼は、1964年に神奈川県葉山町にて、三笠宮崇仁親王と百合子妃との間に長男として誕生しました。

ヒゲの殿下の愛称で知られていた彼ですが、皇族としての公務にも多数取り組んでおり、障害者福祉やスポーツ振興などにも取り組んでいます。

また、日英協会名誉総裁なども務め、皇族の中で特に表に出る機会が多かったことも特徴です。

1990年頃から癌やアルコール依存症に悩むこととなり、2012年に多臓器不全により、66歳の若さで薨去しました。

子女は彬子女王殿下と瑶子女王殿下

寬仁親王殿下と寬仁親王妃信子殿下との間に生まれた子女は、長女の彬子女王殿下と二女の瑶子女王殿下でした。

彬子女王殿下は、1981年12月20日に誕生し、女性皇族の中では珍しく学問の研究に専念しています。

その結果、女性皇族としては史上初となる海外の大学で博士課程を修了し、博士号取得を成し遂げました。

瑶子女王殿下は、大学を卒業後は宮中の行事などに積極的に出席しています。特に、寬仁親王殿下と寬仁親王妃信子殿下が闘病中の際には、その分も公務を務めていました。

祖父は内閣総理大臣・吉田茂

寬仁親王妃信子殿下の家系を辿ると、そうそうたる顔ぶれが並んでいます。その内の1人が、祖父の吉田茂です。

第45・48・49・50・51代の内閣総理大臣を務めた彼は、誰もが知る日本の有名な人物といえるでしょう。

吉田茂は、日本の外交策を推進し、新しい安全保障政策を構築しました。日本財政政策の改革を行い、経済を活性化させたことも大きな取り組みです。

寬仁親王妃信子殿下の家系

寬仁親王妃信子殿下の家系を見てみると、先述した通りかつて内閣総理大臣を務めた吉田茂がいました。

しかし、さらに深堀りしていくと、著名な人物が多数存在していることがわかります。ここでは、彼女の家系をご紹介します。

高祖父は大久保利通

寬仁親王妃信子殿下の高祖父にあたる人物が、大久保利通です。薩摩藩出身の彼は、1830年~1878年頃まで政治家を務めました。

討幕派の中心人物であり、薩長同盟を組んだことでも有名です。その後の政治家時代では、大蔵卿や内務卿を務めています。

さらに岩倉使節団に加わっていたなど、多くの人が歴史を学ぶうえで知る有名な人物です。

家系図にはそうそうたる顔ぶれが並ぶ

家系図を見てみると、吉田茂や大久保利通などの有名な方が多数存在することが分かりましたが、さらに家系図を見ると天皇の甥女であることもわかります。

日本の天皇の親戚も家系図に表れてくるのです。このように、家系による親子関係や兄弟関係を改めて確認すると、寬仁親王妃信子殿下の偉大な親戚が見えてくるでしょう。

寬仁親王妃信子殿下の若い頃は?

寬仁親王妃信子殿下の若い頃は、非常に華奢な方だったそうです。寬仁親王殿下からアプローチされた頃は、非常に体が細く見た目も清楚な印象の方でした。

また、料理が得意であり、調理に関する著作もあるほどです。次第に落ち着きと貫禄が備わり、美しさを維持していたといわれています。

さまざまな名誉総裁や代表を務めている際も、容姿端麗な姿で人々の前に姿を見せていました。

現在のご活動は?

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寬仁親王妃信子殿下の現在は、静養生活を終えて少しずつ公務に復帰しています。

もちろん、全盛期のように全ての公務をこなしているわけではありませんが、体調はかなり回復に向かっているといえるでしょう。

しかし、2022年には乳がんを患っていることが発表されました。すでに手術は受けており、その後経過は良好であるため、元気な姿で復帰を期待したいものです。

皇室のメンバーに興味があるなら

寬仁親王妃信子殿下は、ご自身の取り組みも素晴らしいものですが、家系図を見てみると偉大な方が並んでいることがわかります。

大久保利通や吉田茂など、歴代の偉業を成した方たちがいる家系です。彼女もまた、偉大であることは不思議ではないでしょう。

より詳しく皇室メンバーのことを知りたいのであれば、彼女だけでなく、他の方もチェックしてみましょう。

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