愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)をご存知でしょうか。
日本人にとっては漢字の多さが気になるであろう名前の彼は、映画『ラストエンペラー』のモデルになった清の最後の皇帝です。
彼はわずか2歳で皇帝になり、わずか4年で退位します。
その後、また別の形で皇帝となり、退位してからは庭師や協商会議の委員として中国と日本の橋渡しを行いました。
この記事では、清国の最後の皇帝である愛新覚羅溥儀の生い立ちと子孫の現在について紹介します。
彼以外にも、壮絶な人生を送った彼の弟の娘である福永嫮生(こせい)さんと、同じ苗字を持つ愛新覚羅維(あいしんかくらい)さんからも目が離せません。
愛新覚羅溥儀の子孫について知りたい!
Embed from Getty Images溥儀は清国最後の皇帝です。また、彼は満州事変によって日本が占領した満州国の皇帝にも即位しました。
そのような彼の子孫が現在、どのような生活を送っているのか探っていきたいと思います。
愛新覚羅溥儀の子供はいない
溥儀には婉容(えんよう)という正室がいますが、子供はいません。
婉容は長女を出産したことがありますが、溥儀はその子を自分の子供と認めず、生まれて1時間経たないうちにボイラーに放り込んで殺しています。
また、婉容との不義を疑われた側近たちも、追放されてしまいました。
「妻も側室も君主の奴隷」とみなしていた溥儀は、妻にも子供にも愛情を持たず、清国の復活と再び君主に戻ることに執心するのです。
また、他に溥儀に子供がいない理由として、溥儀がホモセクシャル又は性的不能者だったともいわれています。
溥儀の実弟の妻である浩は著書で「溥儀はホモセクシャルだった」と言っていますし、溥儀の5人目の側室である李淑賢は「溥儀は性的不能者で、治療も受けている」と証言しています。
このように、溥儀には子供がいない理由には様々な説があるのです。
愛新覚羅溥儀に関わる子孫
溥儀に子供はいませんが、溥儀の弟である愛新覚羅溥傑は、愛する妻との間に二人の女の子を授かっています。
その姉妹の名前は、慧生(えいせい)と嫮生(こせい)です。
姉の慧生は天城山で無理心中したことが有名で『天城山心中 天国に結ぶ声』という映画の題材になりました。
妹の嫮生は実の父と生き別れになったり、戦闘真っ只中だった中国大陸の流浪を余儀なくされたりと壮絶な体験をしました。
他に、皇帝一族の子孫として愛新覚羅 維(い)がいます。
この章では、福永嫮生と愛新覚羅 維のお二人について解説します。
福永嫮生(こせい)さん
福永嫮生さんは父である愛新覚羅溥傑と、母の嵯峨 浩(さが ひろ)の次女として1940年に東京で生まれます。
1945年の終戦で満州国が解体され、父は日本へ亡命、母と嫮生は父と生き別れになり極寒の中国大陸を流浪します。
凍傷・赤痢・衰弱に絶えながら、非常に苦しい生活を経験するのです。
日本に帰化した嫮生さんは、母の実家である東京の嵯峨家で暮らすようになりました。
しかし、1年近く経っても、幼い頃の恐ろしい記憶は無くならず、いつでも逃げ出せるように服と靴を風呂敷に包んで枕元に置いて寝る習慣が抜けなかったそうです。
また、学習院初等科の受験では「今までどこに住んでらっしゃいましたか」との問いに、「はい、監獄です」と答えて、母を困らせました。
父の釈放後に再び中国へ戻ります。
しかし、幼い頃の恐怖の記憶が強かったことと、日本での平凡な生活を望んだこともあり、彼女は日本に住むことになります。
現在は兵庫県西宮市に住んでおり、溥傑や母の生前の証言や自身の戦争体験の講演活動を行っています。
愛新覚羅維(い)さん
愛新覚羅維は、その名字からもわかるように清国の皇帝一族の子孫になります。
彼女は現在、アイクリニック大手町の院長として務めているのです。
非常に美しく気さくな方で、自身のインスタグラムで普段の生活や趣味の旅行や飲食店巡りの投稿をアップしています。
彼女の経歴は非常に輝かしいもので、2017年に名古屋大学医学部を卒業後、東京大学で医学博士を取得して眼科専門医になっています。
勤務するクリニックでは、親しみを込めて皆から、あいちゃん先生やあい先生と呼ばれているそうです。
このように中国の皇帝一族の末裔が、現在日本で眼科医となっていることもあるのです。
「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀の生い立ち
この章では、映画『ラストエンペラー』のモデルである溥儀の壮絶な生い立ちを紹介します。
彼は北京で生まれ、2度の即位と国の滅亡による退位を経験し、時代の流れに翻弄された人物の一人です。
彼と日本の関係に注目しながら読んでみてください。
2歳で皇帝に即位
溥儀は、1906年に北京で生まれました。
彼は、11代皇帝の光緒帝の弟である愛新覚羅 載灃(あいしんかくら さいほう)の息子です。
そして西大后の指示により光緒帝の養子となって、清国の皇帝に即位します。
西大后によって、彼はわずか2歳10ヶ月で清朝の第12代宣統帝となるのです。
彼の即位式は紫禁城で行われ世界中から注目されました。その後は、宦官らとともに紫禁城で暮らします。
しかし、腐敗した政治や西大后の自分勝手な振る舞い・外国からの侵略・大飢饉などによって、国民の不満が爆発します。
1912年で退位
1911年に孫文による辛亥革命が起こり、中華民国が成立すると、清国は滅亡します。
そのため、溥儀は即位してからたった4年の1912年で退位せざる負えなくなるのです。
退位後も今まで通り紫禁城で過ごすことを認められ、そこで西洋風の教育や英語の勉強をします。
このような教育を受けることを目的に、レジナルド・ジョンストンを家庭教師として紫禁城に招くのです。
はじめ溥儀は、外国人のジョンストンを紫禁城に招くことを拒否していましたが、彼の博学ぶりに感心して、受け入れることを決断します。
溥儀はジョンストンより日々教育を受けつつ、西洋を知るために洋服・電話・自動車などの輸入品を貰いました。
こうした影響を受け、溥儀は身なりや思想が西洋風のものに変化していきます。
退位後の主な活動
1922年に婉容を皇后として迎え、紫禁城で盛大な結婚式を挙げました。
溥儀は中国皇帝では初めて、イギリスや日本などの外国人を結婚式に招待したことで知られています。
他の溥儀の功績としては、紫禁城の宦官の解雇・美術品の整理・女官の追放など、紫禁城の経費削減を行いました。これにより、国民から称賛をうけています。
また、洪水や飢饉に苦しむ国民のために匿名で多くの支援を行うのです。
1923年の関東大震災が起こったときにも、即座に寄付金と紫禁城内の膨大な宝石を送りました。
このように、多くの人々への支援を行い感謝されています。
その後も中国国内の戦闘が激しくなっていき、ついに溥儀らは紫禁城から追い出されてしまいました。
住む場所が無くなった溥儀たちは、外国に庇護を求めますがイギリスやオランダなどからは拒否されてしまいます。
その中で唯一庇護を受け入れたのが日本でした。
それによって溥儀は、家族とともに日本の天津で過ごすことになります。
二度目の即位
1945年、ソ連が日ソ中立条約を一方的に裏切ります。
その上、日本へ宣戦布告を行い、日本だけでなく満州国にも侵攻してきたのです。
満州国は反撃もできないまま壊滅状態になってしまいました。
1945年8月15日に日本は連合国に降伏し、同年の8月18日に満州国の解体が決定します。
満州国の解体とともに、溥儀は退位を余儀なくされました。その後溥儀は、ソ連に連行され強制収容所に収監されています。
1950年には中華人民共和国に身柄を移され、日本軍の捕虜らとともに「再教育」を受けることになりました。
釈放後は北京植物園での庭師・全国政治協商会議の委員・政協全国委員などを務めました。
最期は、腎臓がんにより1967年10月17日にこの世を去ります。
「最後に食べたいものは」という質問に、彼は「チキンラーメンが食べたい」と答えたそうです。
日本で食べたチキンラーメンが、心に強く残っていたのでしょう。
福永嫮生さんの生い立ち
この章では、伏義の弟の娘である福永嫮生さんの生い立ちについて解説します。
彼女も時代に翻弄されながら、壮絶な人生を送った人物の一人です。
現在は講演活動をしながら、兵庫県西宮市で一般人として暮らしています。
そのような彼女の幼少期・学生時代・日本への帰化後について詳しく見ていきましょう。
幼少期
福永嫮生さんは、父の愛新覚羅溥傑と母の嵯峨 浩(さが ひろ)の次女として、1940年に東京で生まれます。
1954年の終戦で満州国が解体され、父は日本へ亡命し、母と嫮生は極寒の中国大陸の流浪を強いられます。
当時5歳半であった嫮生は、1年5ヶ月の間、冬にはマイナス30度にもなる中国大陸をさまようことになるのです。
約6000㎞もの距離を、母や愛新覚羅一族と共に捕虜として流浪しました。
このような囚われの身となりながら、幼い嫮生のみが外出を許されて、建物の周りの様子を一族や母に伝えています。
また、アヘン中毒の婉容とも行動をともにしていて、嫮生は婉容の世話をする母の姿も見ています。
中国国内は残虐な戦闘の真っ只中にあり、目前で溥儀の乳母の右手が吹き飛ばされてしまうこともありました。
このような捕虜時代の恐ろしい記憶は、彼女の脳裏から生涯消えないものになってしまうのです。
学生時代
嫮生さんは日本に帰国して、学習院大学の初等科に入学します。
その後は初等科・中等科・高等科を経て、学習院女子短期大学の家庭生活科を卒業しました。
日本への帰化後
両親は中国に戻りますが、嫮生さんは恐怖の記憶からか日本に帰化します。
大学卒業後も日本人と結婚し、福永という名前になりました。
その後夫との間に子供を5人授かり、平凡な生活を送っています。
現在は兵庫県西宮市にお住まいで、活動としては、父母や伯父の溥儀が生きた時代の証言や自身の戦争体験などを講演されています。
中国と日本との架け橋として活動
ここまでご紹介した愛新覚羅溥儀・福永嫮生・愛新覚羅維の3人は、日本と中国両国との深い関わりがあることがわかりました。
歴史の流れに翻弄された溥儀は、2度の即位と監獄での生活など波瀾万丈な人生を送っています。
そのような人生でしたが、彼の支えとなった人物・食べ物に救われたからこそ生きてこられたのでしょう。
嫮生さんも壮絶な人生を歩んだことでは、溥儀に引けをとりません。
激しい戦闘が繰り広げられるなか、彼女は母や親族と必死に生き抜いてきました。
そして愛新覚羅維さんは、中国出身の日本人眼科医としてご活躍されています。
彼ら3人は、中国と日本の歴史の流れを深く象徴する方々といえるでしょう。
清国の家系
この章では、清国の歴代皇帝の家系図についてご紹介します。
清国は明朝に続いて中国統一を果たし、満州人の国になります。
清国は1636年から孫文の辛亥革命で滅ぶ1812年までの間中国全土を治めていました。
初代皇帝は、天命帝といわれ清の前身である後金皇帝になります。
第2代皇帝は、崇徳帝で天命帝の第8子にあたり、後金を清という名前に改めました。
第3代皇帝は順治帝で、第4代皇帝は康煕帝非常に熱心な倹約家として有名です。
第5代皇帝は雍正帝・第6代皇帝は乾隆帝・第7代皇帝は嘉慶帝・第8代皇帝は道光帝になります。
第9代皇帝は咸豊帝であり、弟の恭親王に命じて北京条約を結びました。
第10代皇帝は同治帝・第11代皇帝は光緒帝です。そして最後の第12代皇帝は宣統帝である溥儀になります。
中国の帝政時代について詳しく知りたい方は
中国は石器時代から現在まで約5000年という非常に長い歴史のなかで、様々な出来事がありました。
そのため、中国史に関する出来事は小説や映画の題材になっていることが多いです。
例えば、『三国志』『キングダム』『ラストエンペラー』などです。これらはすべて中国史を参考に描かれています。
他の映画・漫画・アニメ・YouTubeなどでも、当時の時代背景について気軽に調べられます。
また、当サイトでも中国の帝政時代について書かれている記事があるので、チェックしてみてください。