中国王朝の歴史にせまる!秦朝・始皇帝や漢朝の文化を詳しくご紹介

ライターPOINT DE VUE JAPON編集部
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中国王朝は非常に長い歴史があり、三国志などでも有名です。その歴史は多くの方を魅了してきました。

そこで本記事では、中国王朝の歴史にせまり詳しく解説します。秦朝・始皇帝・漢朝の文化も詳しくご紹介するので参考にしてください。

中国王朝には長い歴史がある 

中国王朝は、中国において最も長い歴史があるといわれており、その歴史は紀元前221年から1911年まで続いています。

またその間の王朝は様々なものがあり、秦や三国時代など文化や情勢など様々な変化を遂げています。

非常に複雑に変化しており、中でも秦朝・唐朝・宋朝などが代表的な王朝です。秦朝は、紀元前221年に建国されました。

中国を統一した王朝ですが、その規模は中国王朝の中でも最も強大であったといわれており、政治・文化・経済のいずれの分野においても急速に発展しました。

唐朝は、紀元618年~907年まで存在した王朝です。秦朝に次いで大きな王朝といわれていますが、中国王朝の中では最も長期間続いた王朝といわれています。

宋朝は、紀元960年~1279年まで続いた王朝です。その繁栄した期間は、唐朝に次ぐ長さです。

各王朝では優れた文化が育ち、今なお様々な芸術や文化が残っており、現在も多くの方に愛されています。

中国王朝の年代の一部 

中国王朝の年代は、様々なものがあります。先述したような有名な秦朝・唐朝・宋朝以外にも歴史ある王朝が誕生し、移り変わっていきました。

ここでは、中国王朝の中でも特に歴史の深い王朝をご紹介します。

三代 

三代とは、中国王朝の中でも3つの朝代を示す言葉であり、三国時代・隋朝・唐朝の3つをまとめて示しています。

三国時代とは、紀元220年~280年にかけて訪れた時代です。当時は中国が3つの国に分けられた時代で、秦朝の統治が終わりを迎えていました。

秦の統治が終わりを告げた中国では、3つの朝代がそれぞれ独立しており、魏・呉・蜀が台頭していました。

隋朝は、紀元581年~618年にわたって存在した王朝です。唐の時代よりも前に統治した時代であり、遣隋使など日本とのかかわりも強い時代です。

唐朝は、紀元618年~907年の間、中国を治めました。唐の時代も、遣唐使などがあることから日本との強いかかわりがあったことが伺えます。

また、隋朝と唐朝の最も大きな違いとしては、2代目の皇帝の存在といえるでしょう。隋朝の2代目皇帝は、煬帝といいます。

彼は、皇帝としての能力は高かった一方で、暴政も多かったため国民のクーデターに倒されることとなります。

一方、唐朝の2代目皇帝は李世民という人物です。彼は名君と呼ばれるほどで民衆からの支持も厚い人物でした。

そのような彼の尽力により、帝国は300年もの間続くこととなります。

春秋戦国時代 

中国史好きの方であれば、譲れない時代が春秋戦国時代でしょう。この時代は、紀元前770年~紀元前221年まで続き、各地の有力者が自立して分裂した時代です。

特に有名なのが、紀元前403年頃の晋を魏・呉・蜀に3分した春秋時代ではないでしょうか。この時代は春秋戦国時代の前半部分となります。

その後、戦国時代になり、中国はさらに群雄割拠の時代へと変化していきます。

中でも勢力の強かった秦・晋・楚・斉・魯・衛・燕・曹・宋・陳・蔡・鄭・呉・越の14の国が残り、激しい対立が繰り広げられました。

秦代 

秦代は、春秋戦国時代の最後の時代であり、紀元前221年~206年頃まで続く朝代です。

始皇帝によって建てられたこの時代は、これまでの社会体制を改革し、郡県制の中央集権体制で政治が行われました。

これらの制度は、後の中国各王朝にも引き継がれることになるほど、偉大な政治でした。

また、これまで国ごとで異なっていた文字・通貨・度量衡を統一したことも画期的な政策のひとつです。

しかし、これらの政治は長くは続きませんでした。これまでと全く異なる政治などから、国民の反発にあい、わずか15年という期間で秦代は滅亡してしまいます。

漢代 

秦代の次が漢代です。紀元前206年~220年まで続くこの時代は、シルクロード貿易が盛んに行われた時代です。

最も長い王朝であり、官僚制度が確立された時代でもあります。また、儒教を取り入れることで、より国家統治が盤石なものとなりました。

漢代の中でも、最も繁栄したとされるのが紀元前140年~紀元87年まで続いた武帝の統治時代です。

この時代は、漢政権は最も繁栄したとされ、その後の王朝にも大きな影響を与えています。

三国時代 

漢王朝が衰退してくると、次は三国時代へと突入します。紀元220年~581年まで続いた時代であり、魏・呉・蜀の3つの国がそれぞれ独立した政治を行いました。

中でも魏は、軍事力に優れており、多くの地域を支配します。一方で、蜀は農業や文化を振興する政策が実施され、文化的に発展した国でした。

呉では、海軍や貿易を振興する政策が進められ、経済的な発展を遂げていました。このように、3つの国がそれぞれ独自の発展をしたのです。

この時代を物語にした三国志や西遊記などは、今なお根強い人気を誇っており、多くの方に愛される文学作品となっています。

中国王朝でもよく知られる始皇帝 

中国王朝の中でも、代表的な王朝とその時代の特徴をご紹介しました。中国王朝の中でも特に存在感が大きいのがの時代でしょう。

始皇帝による中国統一や政治の治め方は、現在でもなお強く影響力を持っています。そこで、ここでは中国王朝でも良く知られる秦の始皇帝についてご紹介します。

生い立ち 

始皇帝が誕生したのは、紀元前259年のことです。始皇帝は、秦の時代を築き治めるために、多くの国を武力で滅ぼしました。

それほど強い皇帝であったともいえます。しかし、生まれた時から恵まれた強い子供ではありませんでした。

というのも、彼の父は王族ではありましたが、妾の子だったのです。そして、幼いころは趙へと人質に出されていた過去もありました。

しかし、そこから彼は軍人を経て皇帝へと昇りつめます。そして、中国統一を成し遂げますが、偉業はそれだけではありません。

現在でも中国の観光名所として有名な、万里の長城などの土木工事も行いました。これは、北方などからの遊牧民から攻め込まれないようにするためです。

さらに、法律を整備したことでも有名です。中央集権国家などの、現代の政治にも影響を与えた政治体制を築いたことも大きな偉業でしょう。

そうした政治を行う中、紀元前221年に秦を統一後、紀元前210年に死去しました。

また、始皇帝は文化改革を行い、中国の文学や芸術を振興することで中国文化を発展させました。 

彼が統一した「秦」 

始皇帝が統一した時代をといいます。始皇帝はこの時代の初代皇帝です。中国史上で最も権力のある朝代といわれるほど強大な国でした。

これは、秦に統一以前から、様々な国を滅ぼし支配しながら国の統一を行ってきたためです。

軍事的に盤石にするために万里の長城を築いたことは有名ですが、その他の土木工事としては、陵墓や霊渠などを作ったことも偉業のひとつです。

しかし、その繁栄も長くは続きません。紀元前206年には秦は滅んでしまい、秦朝後期には農民のリーダーである劉邦が秦政権を倒して新たに漢朝を建てます。

始皇帝が行った政治 

始皇帝が行った政治には、様々なものがあります。中でも代表的なものが、中央集権体制を強行したことです。

中国という広い領土を治めるため、まず郡県制を生み出します。郡県制とは、全国を郡に分け、その下に県を置くというものです。

そして、中央から役人を派遣し、皇帝の命令を全国の隅々まで及ぶようにしました。さらに、それまで共通ではなかった通貨を統一します。

これにより交易や税の取り立ての効率化を図りました。さらに、焚書坑儒といわれる、秦の思想に合わない書物を燃やしたり思想家たちを生き埋めにしたりする強行策も行います。

万里の長城や兵馬俑も秦朝に建築されたもの 

秦の時代で有名なものといえば、万里の長城や兵馬俑です。中でも、万里の長城は、中国の歴史において最も有名でトップクラスの大きさを誇る建造物です。

北京市を起点として、中国西北部を横断する形で壁となって建てられています。これは、当時の北方の遊牧民などから国を守るために建てられたと考えられています。

また、兵馬俑も中国史上で最も有名な出土品のひとつです。この兵馬俑は、秦朝の軍事力の象徴だといわれています。武装した兵は当時の軍隊を表しています。

秦政権を倒した劉邦 

秦は中国を統一して、新しい政策を行いますが、その統治も長くは続きません。秦政権は注法によって倒されてしまいます。

劉邦は、秦朝を倒して、後の漢朝の皇帝になる人物です。実は彼も決して恵まれた人物ではありませんでした。

幼少期は貧しい農家で育ち、苦労を重ねていました。しかし、知能が高く優秀であったことから、軍人として成りあがっていきます。

後に彼は、秦朝の軍事指揮官にも任命されています。しかし、秦の政治に反乱を起こし項羽とともに秦を滅ぼすのです。

漢朝は様々な文化が生まれ広められた 

劉邦と項羽の反乱によって、滅ぼされた秦朝ですが、2人によって新たに漢朝が建てられます。

漢朝では、秦朝の時に行われていた郡県制を改め、郡国制を行いました。また、様々な文化が広まっていったのもこの時代の特徴です。

儒教 

漢朝で広まった文化のひとつが、儒教です。儒教は中国を中心に、東アジアで広く信仰されている宗教でした。

孔子の教えである儒教は、他人を思いやる仁の心と礼節や社会的規範などを重んじるというものであり、社会の秩序回復の効果がありました。

美術・工芸品 

美術や工芸品もこの時代に広められたもののひとつです。この時代にはシルクロードによる貿易が盛んに行われました。

そのため、中国側からは絹製品などがローマなどに伝わったといいます。また、その他にも、繊細で美しい陶器や装飾的な青銅器などもこの時代に作られました。

さらに絵画・彫刻・細工された宝石など、非常に幅広く芸術品が広まっていきます。

学問 

学問についても研究が進められたことが有名です。特に研究されたのが、政治・経済・軍事・法律・哲学・文学・科学・医学などの分野です。

また、儒学が成立したことで、標準的な教科書の作成や医学の進歩も著しく進んだといわれています。

さらに、文字の変化も起き、現在の漢字と大差ない書体が使われるようになったのもこの時代です。

漢朝は日本にも大きな影響を与えている 

漢朝は、それまでの秦朝と比べても非常に繁栄した時代でした。特に文学や芸術面での成長は著しいものがあったといえます。

そして、漢朝の影響は日本にももたらされたといわれています。中でも特に大きなものが、漢字の伝来です。

日本語の書体を構成する重要な要素となった漢字は、漢朝の時代からもたらされたものだったのです。

また、儒教や佛教なども、日本の文化に大きく影響を与えたといわれています。このように漢朝からの影響は非常に大きいものでした。

しかし、日本が影響を受けたのは漢朝だけではありません。中国の歴史からは多くのことを学び、歴史に活かされています。

中国王朝の歴史をより詳しく学び、世界への影響などをチェックしてみてください。

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