ウォリス・シンプソンとはどんな人?英国王室の歴史を変えた恋多き女性の生涯について紹介します。

ライターPOINT DE VUE JAPON編集部
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ウォリス・シンプソンはその人生が「ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋」という映画作品になるほど、波乱万丈な人生を送ってきた人物です。

当時のイギリスからは反発を受けていましたが、最終的に王族として受け入れられ、生涯を終えています。

本記事では、そのようなウォリス・シンプソンの人生に迫っていきます。

ウォリス・シンプソンとはどんな人?

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ウォリス・シンプソンはエリザベス女王の伯父である、エドワード8世の妻にあたる人物です。

アメリカで生まれ、当時イギリスの王太子であったエドワード8世と交際していたことで一躍注目を浴びることになります。

イギリス王室の歴史を変えた女性として知られ、その人生が映画にもなった人物です。

ウォリス・シンプソンの生い立ち

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ウォリス・シンプソンは1896年6月に、アメリカのメリーランド州ボルチモアという都市の一族、ウォーフィールド家に生まれます。

本名はベッシー・ウォリス・ウォーフィールドといい、父は裕福な小麦商人の末子であるティークル・ウォリス・ウォーフィールドといいます。

母は株式仲介人の娘であるアリス・モンタギューです。

生後5ヶ月のときに父親は結核により亡くなりましたが、親戚の屋敷で暮らすことになります。

父親の兄は独身で祖母と暮らしており、裕福な家庭でした。ウォリスとアリスは、その伯父の元に引き取られ、いい友人にも恵まれて成長しました。

12歳のときには伯父の援助もあり、メリーランド州の裕福な子女が通う学校に通いました。そこで裕福な家庭の子ども達と知り合います。

ウォリス自身は決して裕福ではありませんでしたが、周囲は富豪やセレブが多かったため、セレブの生活とはどのようなものか知れたようです。

社交界での活躍

ウォリスは決して抜群の美貌というわけではありませんでしたが、大変に社交的でした。さらにおしゃれに気をつかい、ダンスなども人一倍努力して練習していました。

これが実を結び、社交界の男性たちを次々と魅了していきます。

ウォリスはボーイフレンドに恵まれており、「金持ちでいい男性を見つけて結婚するのが夢」と周囲に語っていたそうです。

二度の結婚

ウォリスは二度の結婚歴があることで有名です。この結婚生活がのちのち大きな問題に発展します。

ここからは、ウォリスの二度の結婚についてご紹介していきます。

一度目の結婚生活

ウォリス・シンプソンの一度目の結婚相手は、アメリカ海軍の航空士官であるウィンフィールド・スペンサー・ジュニア中尉です。

1916年に結婚をしましたがウィンフィールド中尉のアルコール依存症やDV、女性関係などの様々な原因が積み重なり、1927年にウィンフィールド中尉の中国転勤を機に離婚しました。

二度目の結婚生活

1928年にウォリス・シンプソンは二度目の結婚をします。お相手はニューヨーク生まれの船舶仲介会社の社長であるアーネスト・シンプソンです。

アーネスト・シンプソンは父の母国であるイギリスに憧れており、イギリス国籍を取るためにイギリス近衛歩兵連隊の少尉になった経歴を持ちます。

ウォリスは召使いが何人もいるロンドンの豪華なアパートに住み、ロンドン社交界へセレブの仲間入りも果たしています。

エドワード王太子との出会い

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ウォリス・シンプソンはアーネスト・シンプソンと夫婦関係である間に、当時王太子であったエドワード8世と不倫関係にありました。

シンプソン夫妻をエドワード8世に紹介したのは、当時エドワード8世の愛人であったファーネス子爵夫人のテルマです。

ここからは、ウォリスとエドワード8世の不倫関係の事実や結婚するまでの出来事をご紹介していきます。

エドワード王太子との不倫

1931年1月に、テルマ夫人の別荘で開催されたパーティーでウォリスとエドワード8世は出会いました。

ウォリスの方がエドワード8世に一目惚れし、1933年の冬頃にテルマ夫人がニューヨークにでかけた間に、ウォリスとエドワード8世は不倫関係となります。

その後、ウォリスとアーネストは夫婦揃ってロンドン郊外にある王室の所有する別荘に招待されるようになりました。

ウォリスを夫婦で招待しているにも関わらず、エドワード8世は人目を気にする様子もなく彼女と親密になっていきます。

エドワード8世からの愛情

エドワード8世のウォリスへの愛情は凄まじいものだったとされています。

エドワード8世はウォリスには夫がいるにも関わらず、外出の際は必ず彼女を同伴させ、高価な宝石も好きなだけ買い与えるなどしていました。

そのうちエドワード8世の邸宅で同棲をするまでになり、ウォリスへの愛情はますます増していきます。

一方、ウォリスの夫であるアーネストにも当時愛人がおり、アーネストはウォリスとエドワード8世との関係を黙認していたそうです。

ウォリスもエドワード8世だけでなく、後のドイツ外務大臣であるヨアヒム・フォン・リッベントロップや、他のイギリス人とも肉体関係があったという噂が立っています。

両親と国民からの反対

1934年に、エドワード8世はバッキンガム宮殿で開催されたパーティーで、両親であるジョージ5世とメアリ王妃にウォリスを紹介しました。

しかし、離婚経験があるアメリカ人女性との関係が許されることはなく、ジョージ5世とメアリ王妃は大激怒したそうです。

ウォリスとエドワード8世の関係は両親だけでなく、大多数の国民にも反対されており、多くの人々から批判の声を浴びていました。

三度目の結婚生活

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1963年1月、ジョージ5世が崩御し、当時37歳で王太子であったエドワード8世は独身のまま王位を継承しました。

即位式にはウォリスが立会人として出席しましたが、王室関係者からはエドワード8世の友人のようにしか扱われませんでした。

それに不満を持ったエドワード8世は、王位に即位した後、すぐにウォリスと結婚する意思を当時首相であったボールドウィンに伝えました。

しかし、ウォリスには離婚歴があり、現在もアーネストと結婚しています。

死別を伴わない離婚はイギリス国協会で認められていないことを理由に、ボールドウィン首相に拒絶されました。

エドワード8世は納得せず、公然と2人で海外旅行に出かけたり、ペアルックを着て人前に現れるなど、ウォリスとの関係をアピールするようになります。

さらにボールドウィン首相も出席するパーティーでは、ウォリスの夫であるアーネストに「さっさと離婚しろ」と暴言を吐き、暴力まで振るうなど問題を起こしました。

そのようなエドワード8世の愛情とは裏腹に、ウォリスは結婚したいと思っていなかったと残された手紙から推測されています。

しかし、別れ話をするとエドワード8世は自殺を示唆するなど、別れたくても別れられない状況に陥っていました。

エドワード8世の退位

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1936年に、ウォリスは夫であるアーネストの不倫を理由に裁判に勝訴し、離婚が成立します。

エドワード8世はウォリスと結婚をする気で公的な文書を作成していましたが、ボールドウィン首相は文書の内容に反対しています。

政府の助言なしの演説は立憲君主制に対する重大な違反行為としてエドワード8世に警告しました。

ボールドウィン首相はエドワード8世に対して、国王の個人的な問題だけでなく、イギリス王政そのものに対する問題に発展しかねないと判断しました。

そこで以下の3つの選択肢を提示します。

  • ウォリスとの結婚をやめる
  • イギリス王政に背いてウォリスと結婚する
  • 国王を退位したあとにウォリスと結婚する

上記の3つの中から、エドワード8世は国王の座を退位したあとにウォリスと結婚することを選びました。

これにより、1936年12月11日、エドワード8世は退位を表明しました。

エドワード8世が退位したあと、イギリス国王には弟であるヨーク公がジョージ6世として即位し、エドワード8世は1937年3月にウィンザー公爵の称号を与えられます。

王室から離れたわけではありませんでしたが、当時のエドワード8世はウォリスとの結婚の件もあり、メディアから大きく非難されていたため、逃げるように海外へいきました。

行き先は祖父の代から関係のあるロスチャイルド家が用意したウィーン郊外にあるエンツェスフェルト城です。そこでしばらく過ごした後フランスへ渡っています。

イギリスではウォリスのバッシングが過熱しており、ウォリスも精神的なダメージを受けたことでカンヌの別荘に避難しました。

エドワード8世との結婚

1937年、エドワード8世とウォリスは無事に再会し、フランスのトゥールで挙式を行いました。

しかし、イギリス王室や政府からの出席者はおらず、親しい友人を招いただけの挙式となりました。

ドイツとの親密な関係

エドワード8世とウォリスが結婚した当時は第二次世界大戦前であり、ヨーロッパではナチスドイツが勢力を増していました。

1937年10月、エドワード8世とウォリスはイギリス政府の忠告を聞くことなく、ヒトラーの招待でドイツを訪問し、ヒトラーが所有する山荘に滞在しました。

ドイツとイギリスの関係が悪化してもなお、ウォリスらはドイツを訪問し続けたため、イギリス国内からはさらに大きく批判されることになります。

そして1940年8月、イギリス政府はエドワード8世をイギリスの植民地であるバハマの総督と、バハマに駐在するイギリス軍の総司令官に任命しました。

そのため2人はバハマに行くことになります。

バハマでの暮らし

エドワード8世とウォリスはバハマの首都ナッソーで暮らすことになり、農業生産の拡大や子どもを対象とした診療所の開設など、貧困対策に注力しました。

しかし、ウォリスは飛行機でアメリカへ買い物に行き、ブランド品や宝石を身につけるなど派手な生活を送っています。

その様子は戦時中で苦しい生活を強いられるバハマの人々の非難の対象になってしまったとされています。

王室との関係

イギリス政府や国民の反発を受けながら結婚をした二人は、イギリス王室とはほぼ絶縁状態にありました。

エドワード8世の子どもが王族を名乗ることを許可されなかったり、ウォリスにイギリス王室での殿下の称号が与えられず公式行事に参加できなかったりと、厳しい処置がされました。

またジョージ6世はエドワード8世に「許可なくイギリスに帰国したら、王室からの年金を打ち切る」と忠告を受けたため、二人のイギリスへの帰国は実現されることはなかったそうです。

エリザベス女王からの赦し

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1972年、エドワード8世が亡くなったことがきっかけで、ウォリスはエリザベス女王の赦しを受けて初めてバッキンガム宮殿に公爵夫人として滞在しました。

この時にウォリスがエドワード8世の葬儀で、エリザベス王太后やエドワード8世の姉妹たちと並んで列席したことが話題になりました。

晩年の過ごし方

ウォリスの晩年の過ごし方はほとんど寝たきりだったといわれています。

エドワード8世の葬儀に列席したときには76歳ですでに痴呆状態で、葬儀を終えたのちに見送りにきた人々を一度も振り返ることなくイギリスを去ったそうです。

その後、ウォリスはブローニュの森にある邸宅で過ごし、1986年4月に亡くなります。

葬儀はイギリスで王族として執り行われたため、最後には王族と認められてこの世を去りました。

世界のセレブ事情をもっと知りたいなら

本記事ではウォリス・シンプソンの人生をご紹介しました。

映画化もされるほど波乱万丈な人生を送ったウォリスですが、最後にはイギリス王族として認められながらこの世を去っています。

世界にはウォリスだけでなく、波乱万丈な人生を送っている様々な人物がいます。

当サイトではそのような人物にフォーカスした記事が豊富にありますので、興味があればぜひご覧ください。

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