イラン国王について知りたい!歴代国王の生い立ちとイラン帝国パフラヴィー朝の歴史について紹介します

ライターPOINT DE VUE JAPON編集部
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かつてのイランが帝国であり、ある王朝に統治されていたことをご存じでしょうか。その王朝は2代で終焉を迎え、現在のイランは共和制へと移行しています。

本記事では、イラン国王に関する知識をはじめ、イラン帝国を治めていたパフラヴィー朝についても紹介していきます。

本記事を読むことで、イラン国王やイラン帝国に関する知識が身につけられるでしょう。興味のある方は、ぜひ本記事をチェックしてみてください。

イラン国王について知りたい!

イランにはこれまで、サーサーン朝やブワイフ朝などの様々な王朝が存在していました。ときには、アッバース朝やモンゴル帝国といった巨大な王朝に支配されたこともあります。

しかし、パフラヴィー朝による統治を最後に、イランは共和制へと移行しました。現在ではイラン・イスラム共和国として存在しています。

ここからは、イラン帝国最後の王朝であったパフラヴィー朝の国王を中心に紹介していきます。

イラン帝国パフラヴィー朝の樹立

イラン帝国のパフラヴィー朝が樹立したのは、1925年のことです。それまでのイラン帝国は、カージャール朝によって支配されていました。

パフラヴィー朝が樹立するきっかけとなったのは、1921年にペルシャコサック旅団の軍人であったレザー・ハーンがクーデターを起こしたことです。

このクーデターによりレザー・ハーンはイラン帝国の首相となります。その後、皇帝として即位することとなり、カージャール朝を廃止してパフラヴィー朝を樹立しました。

イラン帝国の国王は2代のみ

イラン帝国パフラヴィー朝の国王として即位したのは、レジャー・シャー・パフラヴィーモハンマド・レジャー・シャー・パフラヴィーの2代のみです。

それまではペルシャという国名でしたが、パフラヴィー朝の統治時代にイランに改名されました。

パフラヴィー朝は1925年に成立してから、イラン革命によって1979年に崩壊します。その後のイランは共和制となるので、国王が再び即位することはありませんでした。

ここからは、それぞれの国王について詳しく見ていきましょう。

レザー・シャー・パフラヴィーの生い立ちと活動

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最初にパフラヴィー朝の国王として即位したのは、レザー・シャー・パフラヴィーです。即位前はレザー・ハーンと呼ばれていました。

イラン帝国最初の国王として1925年12月25日に即位し、1941年9月16日に退位しています。

まずは初代国王であるレザー・シャーについて詳しく紹介していきましょう。

生まれと青年時代

レザー・ハーンが誕生したのは、1878年3月16日のことです。イランのマーザンダラーン州にあるアラシュトという町で生まれました。

子どものころに父親が死去し、母親が再婚した後は叔父によって育てられます。25歳になると、レザー・ハーンはペルシャコサック旅団に入団しました。

帝国軍にも入り、最終的にペルシャコサック旅団の指揮官にも就任しました。そうして引き起こしたのが、パフラヴィー朝成立のきっかけとなるクーデターです。

首相就任・皇帝即位

1921年、当時ペルシャコサック旅団の一員であったレザー・ハーンは、クーデターをおこします。このクーデターにより、レザー・ハーンはテヘランを奪還しました。

レザー・ハーンはイギリスから陰ながら援助を受け、1923年に首都に戻ると首相に任命されます。それをきっかけに、当時の国王であったアフマド・シャーは国外へ亡命しました。

亡命後、レザー・ハーンが次の国王となることが正式に決定されます。1925年12月25日、レザー・ハーンはレザー・シャー・パフラヴィーとして皇帝となりました。

皇帝に即位後は、国内・国外において様々な政治活動を行っています。女性解放や教育改革など、イランの近代化にも務めました。

1935年には、ペルシャという国名をイランに改名しました。

近代化などを行ったことで国民からの支持を集めたレザー・シャーでしたが、政治は独裁色が強く、国民から多くの反発を受けたとされています。

皇帝退位後

レザー・シャーが皇帝を退位することとなったのは、第二次世界大戦中のことです。

1941年8月、イランはイギリスとソビエト連邦の連合軍から侵攻を受けました。この侵攻は、イラン進駐と呼ばれます。

イランは連合軍に占領され、9月16日にはイギリスによってレザー・シャーの退位が強制的に行われました。

息子のモハンマド・レザーが帝位を継承し、レザー・シャーはモーリシャス島に亡命します。その後は南アフリカに移住し、1944年7月26日に死去しました。

モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィーの生い立ちと活動

モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィーは、前皇帝レザー・シャー・パフラヴィーの息子です。1919年10月26日に誕生しました。

イラン帝国の最後の皇帝として、様々な活動を行っています。ここからは、モハンマド・レザーについて詳しく紹介していきましょう。

皇太子時代

1925年に父のレザー・シャーが国王に即位すると、モハンマド・レザーは皇太子となりました。皇太子時代にはスイスに留学し、多くの人々と交友関係を築いています。

その後、1939年に勃発した第二次世界大戦をきっかけに、皇帝に即位することとなります。

2代皇帝に即位

第二次世界大戦中、当時の国王のレザー・シャーは、中立の立場を表明していました。しかし、イラン国内のドイツ人の追放を拒否するなど、枢軸国側よりの態度を見せていました。

これにより、イギリスとソビエト連邦の連合軍が、イランへの侵攻を行います。1941年にイランは制圧され、レザー・シャーは国王からの退位を余儀なくされました。

父の退位に伴い、モハンマド・レザーはイラン帝国の第2代皇帝に即位します。1941年9月16日に即位し、1967年10月26日に戴冠式が行われました。

在位中の活動

皇帝に即位したモハンマド・レザーは、在位中様々な活動を行っています。

国内の政治では、イランの近代化を推し進めました。1951年から石油を国有化し、土地改革・女性参政権の確立・教育改革などを行いました。

モハンマド・レザーが取り組んだ近代化の活動は、「白色革命」と呼ばれます。イランの近代化・西欧化を提唱し、経済成長を目指しました。

白色革命によって近代化が進んだイランでしたが、国内では混乱も生じていたといいます。失業者が増え、国民の貧富の差は拡大しました。

退位後

モハンマド・レザーが行った白色革命は、1970年代後半には破綻し始めます。オイルショックによって崩れていた原油の価格が安定化したためです。

それによって、イラン国民の貧富の差はますます拡大しました。モハンマド・レザーの求心力は衰退し、国内ではデモや反乱が生じるようになります。

イラン国内が混乱する最中、モハンマド・レザーは1979年1月16日にエジプトに出国しました。休暇のためと称していましたが、国内では実質的な亡命として報道されたそうです。

国王の出国後、反体制派であったホメイニーがイスラム革命評議会を設立します。その後国王を支持する軍とホメイニーを支持する軍が戦闘し、国王派の軍が制圧されました。

モハンマド・レザーは1979年2月11日に退位し、イスラム革命評議会がイスラム共和制へと移行させました。

モハンマド・レザーは亡命後、様々な国を転々とします。最終的には親交の深かったエジプトに居住し、1980年7月27日に死去しました。

イラン帝国パフラヴィー朝の終焉

イラン帝国パフラヴィー朝は、2代の皇帝で終焉を迎えてしまいました。ここからは、パフラヴィー朝の終焉の流れについてもう少し詳しく解説していきましょう。

ルーホッラー・ホメイニー元首の追放

モハンマド・レザーに対する反発を主導していたのは、ルーホッラー・ホメイニーという人物です。ホメイニーは、皇帝が行う独裁的な白色革命に反対の声を上げていました。

ホメイニーは抵抗運動を主導し、1963年に逮捕されます。一度は釈放されましたが、繰り返し反対運動を続けたため、1964年に国外へ追放されました。

追放後はトルコ・イラクに滞在していましたが、1978年にフランスへ亡命します。なお、亡命した後も反体制運動の支持を続けていたようです。

イラン革命

モハンマド・レザーが1979年1月にエジプトへ出国した後、ホメイニーは2月にフランスから帰国しました。その後すぐにイスラム革命評議会を組織します。

イスラム革命評議会は、イランが共和制へ移行することの是非を問う国民投票を行いました。投票の結果共和制へ移行することが決定し、ホメイニーは最高指導者となります。

これらのホメイニーが行った運動は、イラン革命と呼ばれます。

帝国崩壊後

イラン帝国は崩壊後、イラン・イスラム共和国となりました。ホメイニーがイスラム法学者であったことから、イスラム法を施行したイスラム的社会の実現が目指されました。

国外においては、パフラヴィー朝を支援していたアメリカ合衆国との対立が生じたといわれます。また、隣国のイラクとも対立関係にありました。

1980年9月22日には、イラクがイランへ侵攻を行い、イラン・イラク戦争が勃発します。アメリカをはじめとする各国がイラクを支援したため、イランは劣勢の状況になりました。

イラン・イラク戦争は8年続きましたが、1988年8月20日に停戦を迎えました。

イラン国王子孫による政治活動

イラン帝国最後の皇帝であったモハンマド・レザーには、1960年に息子が誕生していました。その人物が、元皇太子のクロシュ・レザー・パフラヴィーです。

クロシュ・レザーは現在、アメリカ合衆国でイランに対する反政府活動を行っています。イラン・イスラム共和国における人権を批判し、イランの民主化を支援しています。

イラン国内においても反体制派がおり、クロシュ・レザーを支持する国民もいるそうです。ときには王政復古が叫ばれることもあります。

イラン国王・イラン帝国について詳しく知りたいなら

イラン帝国は、2代の皇帝が治めた国でした。イランの近代化が進み、国外との交流も行われていたようです。

しかし、国民からの反発を受け、イラン帝国のパフラヴィー朝は崩壊しました。現在は、イラン・イスラム共和国として存在しています。

イランについてさらに詳しく知りたいと考えた方は、他の国についても調べてみてください。他国の視点からイランを見ることで、新たな知見が得られるでしょう。

当サイトでは、多数の国の王室や歴史などを紹介しています。興味のある方は、ぜひ当サイトの他の記事もチェックしてみてください。

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