三笠宮彬子さまはどんなお方?生い立ちや経歴・研究やスポーツ振興に関する活動を紹介します

ライターPOINT DE VUE JAPON編集部
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KUSHIMOTO, JAPAN – JUNE 4: Princess Akiko of Mikasa is seen at the Turkish Sailors Monument during the commemoration ceremony of the 125th of Ottoman Ertugul imperial frigate tragedy in the costal Japanese island of Kii-Oshima, Japan on June 4, 2015. (Photo by David MAREUIL/Anadolu Agency/Getty Images)

皇族と聞くと、なんとなく重々しいイメージを抱いてしまう方も多いと思います。

そんな中で、いとも軽やかに海外に留学して博士号まで取得してしまった女性皇族がおられることをご存知でしょうか。それが三笠宮彬子さまです。

ここでは、そんな三笠宮彬子さまのプロフィールをまとめてご紹介します。

生い立ちから経歴、現在までの活動など、三笠宮彬子さまの魅力を知ることができる情報を集めました。

三笠宮彬子さまの人物像を思い描く手がかりとして、ぜひご一読ください。

三笠宮彬子さまはどんなお方?

三笠宮彬子さまは、天皇陛下の親族(宮家)の1つである三笠宮家のプリンセスです。

三笠宮家に長女として生を受けられた三笠宮彬子さまは、学業の分野で優れた才能を発揮しました。

女性皇族として初めて博士号の学位を取得した方であり、論文やエッセイなどの著作もある多才な女性です。皇族の中でも相当な知性派といってよいでしょう。

また多数の団体の総裁を務められ、公務においても存在感を示しています。

三笠宮彬子さまの生家である三笠宮家は、皇族の中でも個性豊かなことで知られています。

そんな三笠宮家でお育ちになった彬子さまは、自分の意志をもつしっかりした女性に成長されました。

海外での研究生活を経験され、その経験を生かしながら公務に取り組む姿勢は、皇族女性としてはあまりみられなかったものです。

知性あふれる個性派プリンセスの人物史をこの後の項でみていきましょう。

三笠宮彬子さまの生い立ちを紹介

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まずは三笠宮彬子さまの生い立ちからご紹介します。ご誕生から学生時代までを以下にまとめました。

三笠宮寬仁親王と信子妃の第一子として生まれる

三笠宮彬子さまは1981年12月20日、三笠宮寬仁親王信子妃の長女としてお生まれになりました。

お父さまの三笠宮寬仁親王は、破天荒な言動と「ヒゲの殿下」の愛称で国民に広く慕われた方です。

お母さまの信子妃は、祖父吉田茂をはじめ多くの政治家を輩出した家系のご出身です。

三笠宮彬子さまが生まれた2年後には妹の瑶子さまが誕生され、一家4人の生活が始まりました。

学習院にて学問を学ぶ

つつがなく成長された三笠宮彬子さまは、学習院にて教育を受けることになります。

最初の一年間は松濤幼稚園に通園されましたが、それ以降は幼稚園から大学卒業まで一貫して学習院に通われました。

瑶子さまも同じく一貫して学習院で教育を受けられています。ご姉妹は学部こそ違いますが、ともに学習院で学業を修められました。

日本の文化に興味をもつことを学んだ学習院時代は、その後の三笠宮彬子さまの活動の基礎を作り上げていくことになります。

学習院大学文学部史学科を卒業

2004年、三笠宮彬子さまは学習院大学文学部史学科を卒業されます。目指した道は海外留学でした。

日本特有の文化に興味をもつ三笠宮彬子さまにとって、自国の文化を外からみることができる留学体験は、魅力的に映ったにちがいありません。

卒業後、留学の夢を叶えた三笠宮彬子さまは、海外で実力を発揮することになります。

オックスフォード大学マートン・カレッジに留学

大学卒業後の彬子さまは、お父さまの三笠宮寬仁親王と同じオックスフォード大学に進学されました。

大学では美術を専攻し、日本美術、とくに日本美術が海外に流出した経路の追跡調査についての研究を行っておられます。

2010年には博士課程を修了して哲学博士号を取得しました。博士号の取得は皇族では秋篠宮殿下に続き2人目、女性皇族としては初めてのことです。

また海外で博士号を取得した皇族としても、三笠宮彬子さまが初めてとなります。

三笠宮彬子さまの経歴とは

大学院卒業以降の三笠宮彬子さまは、ご自身の能力を生かした職種で活躍します。

また公務にも精を出され、とくに2012年に三笠宮寬仁親王が薨去されてからは、その遺志を引き継いだ形で各種団体の総裁を務められました。

ここではそういった経歴の中からいくつかをピックアップしてご紹介します。

ポストドクトラルフェローに就任

学問を修めてイギリスから帰国された三笠宮彬子さまは、立命館大学にて任期付きの研究員となりました。

こうした形で就業する博士号(ドクター)所持者のことを、ポストドクトラルフェローまたは省略形でポスドクといいます。

ポスドクとなった三笠宮彬子さまは、得意分野の日本文化研究で活躍されました。

任期満了により退任されましたが、その後も立命館大学からは短期間准教授として招聘されるなど、ご縁が続いています。

学問を究めようとする三笠宮彬子さまにとって、大学はホームフィールドといえるのかもしれません。

立命館大学のほかにも國學院大學国士舘大学京都市立芸術大学などさまざまな大学で客員教授として教鞭をとっています。

一般社団法人心游舎の総裁

一般社団法人心游舎は、三笠宮彬子さまと思いを同じくする有志により2012年に設立された団体です。

団体の目的は、日本文化を子どもたちに継承していくこととされています。

四季折々のワークショップや農業体験、伝統芸能体験などさまざまな行事を通して日本の伝統文化を子どもたちに体感してもらうのが目標です。

三笠宮彬子さまはこの団体の総裁として活動を行っています。

その活動からは日本の文化を大切にしたいという思い、そして日本という国の象徴である皇族としての責任感が伝わってきます。

日本・トルコ協会の総裁

日本・トルコ協会はその名の通り、日本とトルコのかけ橋となるべく活動している団体です。

トルコの言葉や文化を紹介するセミナーの開催やトルコ料理のレシピ公開など、楽しい活動を日々行っています。

この歴史ある団体の総裁を務めるのが、三笠宮彬子さまです。

トルコは昔から日本と関係の深い国です。

三笠宮彬子さまにおかれましてもご両親の寬仁親王・信子妃両殿下の時代から交流があり、ともに現地を訪れるなど良好な関係を築いてこられました。

総裁職はまさに適任といえるでしょう。

三笠宮彬子さまは現皇室典範での初の女王

三笠宮彬子さまの正式な称号は「女王」です。正しい敬称は「彬子女王殿下」になります。

女王という言葉から、イギリスのエリザベス女王のようなトップに立つ女性を連想される方もいるかもしれません。しかし、それは違います。

皇室典範では、天皇陛下からみて嫡流であり、かつ三親等より遠いご関係の女性親族を女王とお呼びする決まりになっています。

いわゆる英語のクイーンとは違い、英訳するとむしろ「プリンセス」になるのが、わが国における「女王」なのです。

三笠宮彬子さまは、1947年に現在の皇室典範が法律として定められて以降初めて女王の称号を受けた女性になります。

三笠宮彬子さまの研究志向が高い

三笠宮彬子さまは、女性皇族としては一風変わった個性をもっているといえるでしょう。

興味のある事柄を突き詰めていくうちに博士号まで取るに至る、その徹底ぶりは皇族に限らず一般の女性でもなかなか例がありません。

その個性は公務にも生かされています。

たとえば自ら設立し総裁を務める心遊舎は、日本の伝統文化を次世代へとつなげていくことを目的とした団体です。

これは、ご自身の得意分野である日本美術史研究を突き詰めていった結果といえます。

こういった興味をもった事柄を徹底的に研究していく精神が三笠宮彬子さまの個性であり、また大きな魅力でもあるのです。

三笠宮彬子さまはスポーツ振興にも精力的

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学業を得意とするイメージの三笠宮彬子さまですが、ご興味をもたれているのは学問だけではありません。スポーツ関連の団体にも、精力的にかかわっています。

日本ラグビーフットボール協会総裁のほか、寬仁親王から受け継いだ日本プロスキー教師協会総裁も務められ、学問だけではないところを示されました。

スポーツ団体との深いかかわりは、自身スポーツを愛好されたという寬仁親王を彷彿とさせます。

学業一辺倒ではない、バランスのとれた活動は誰もが見習いたいところです。模範的な文武両道の活躍は、十分に国民の期待を集めています。

余談ですが、三笠宮彬子さまのお父さまの寬仁親王は、学生時代スポーツに熱中しすぎて学業成績は悪かったそうです。

長女と似ていないバランスの悪さは、むしろユニークな個性というべきでしょうか。親しみやすい人柄を語るエピソードです。

三笠宮彬子さまの家系

三笠宮家の歴史は、1935年までさかのぼることができます。彬子さまに続く三笠宮家の歴史をひもといてみましょう。

祖父は三笠宮崇仁親王

三笠宮家の初代当主は、三笠宮崇仁親王殿下です。この方は彬子さまのおじいさまにあたります。

三笠宮家は1935年、崇仁親王が成年を迎えた際に設立されたものです。三笠宮という名前は、百人一首の中の有名な句からとられました。

崇仁親王は2016年に薨去しましたが、100歳というたいへんなご長寿で三笠宮家の礎を支え続けました。

曾祖父に大正天皇を持つ

彬子さまのおじいさまである崇仁親王は、大正天皇の四男になります。つまり、彬子さまからみると大正天皇はひいおじいさまになるわけです。

昭和天皇は祖父の兄にあたります。あるいは父の伯父ともいえます。

父は寬仁親王、母は寬仁親王妃信子

彬子さまのお母さまである信子妃は、公務にもご活躍されましたが家事も得意という有能な女性です。

とくに料理はレシピ本も出版しているほどの腕前だそうです。

次女の瑶子さまもしばしば母の料理について言及されているほどですから、どれほど印象的だったかがわかります。

やや年配の方であれば、彬子さまの父寬仁親王殿下のことを「ヒゲの殿下」の愛称で覚えているかもしれません。

寬仁親王は率直な発言と親しみやすいキャラクターで知られ、テレビやラジオなどのメディアにもたびたび出演して国民に愛された方です。

寬仁親王は2012年に惜しまれつつ世を去り、その後三笠宮家の当主は暫定的に信子妃に移りました。

しかし三笠宮家には男子がいないため、現在の皇室典範によれば信子妃と彬子さま・瑶子さま姉妹の薨去またはご結婚による除籍によって宮家は断絶することになります。

日本の皇室に関する詳しい情報を知りたい方は

三笠宮彬子さまの人物史と業績をコンパクトにご紹介しました。

三笠宮彬子さまは女性皇族の中でも異色といえるほどの学才に恵まれたプリンセスとして、今後も活躍が期待されています。

興味をもたれた方はぜひ、チェックしてみてください。

個性的な三笠宮家を含めた日本の皇室に関して、さらに詳しい情報を知りたい方はぜひ当サイトのほかの記事もご覧ください。

親族関係など複雑な情報も、コンパクトにまとめてわかりやすくお伝えしています。皇室について情報収集する際には、お気軽にご利用ください。

また当サイトでは、日本の皇室だけでなく英国王室など海外の王室についても情報を発信しています。あわせてお楽しみいただければ幸いです。

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